2013年8月27日火曜日

◎残暑お見舞い

◎生まれ変わりには「自分の内部に存在する主との一体化」が必要

日本ではかつて多数の信者をもつ宗派の一つに浄土宗と浄土真宗がありました。法然とその弟子の親鸞が開祖です。この宗派は、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を唱えていると極楽(天国)へ往生できるという”シンプル”な教えでした。つまり大衆にとって理解しやすく実践も容易な教えであったので、信者数も多かったわけです。現代風に解釈すると、その行法はイメージ法であり反復思念法の形態を取っていたと言えます。
昔の人達が多数で集まり、一心にこの行法を続けることで、そこに集まった個人の精神にも大きな影響があったと想像されます。残念ながら筆者の家は別の宗派に属しているので、その実態は想像するしかないのです。現代人は極楽へ死後に行けると言われて信じるのかどうかはわかりません。たぶんその人によるのでしょう。

『体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。』(コリントの信徒への手紙1、第六章13-14)
『娼婦と交わる者はその女と一つの体になる、という事を知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。』(コリントの信徒への手紙1、第六章16-17)
『知らないのですか、あなた方の体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。』(コリントの信徒への手紙1、第六章、19)

上記の文章を自分なりに解釈すると、我々の体の内部には「主」なる存在が宿り、それと一体化することにより「復活」にあやかれる(死後に復活することができる)。その主なる存在は、神からいただいた聖霊とも言えるもので、私達の体はその神殿である(だから、大事に扱うべきである)となります。 また、個人的には、これらの事柄はキリスト教徒だけでなく万人に当てはまるものと思っているので、誰でもそうした恩恵にあやかれるものと考えます。また、この主なる存在は『守護霊』とか『ご先祖様』といわれる力や不思議な現象を引き起こす存在でもあるのではないか。

しかし、この「復活」という言葉は過去に書いたように、転生とか生まれ変わりと解釈すると、重要な要素は「主との一体化」です。 「私たちは死後に眠りにつくのではない」(コリントの信徒への手紙1、第十五章51)とありますので、転生は瞬時に行われる、とする仮説が成り立ちます。
それで、一般的な解釈である、キリストとの一体化を『教会に所属する』としただけでは「復活に至る」筋道が今ひとつ不鮮明な気がします 。さらに、何かの要素が必要ではないかと思うのです。

だいたい、私たちが内部に宿る「主なる存在」に気づかないのは「なぜ」でしょうか。しかも、それと一体化していないというのは不思議です。
おそらく、私達の心(顕在意識)はいつも多忙で、目先の事柄や欲望の対象を常に追いかけ続けて、自分の内部に目を向けていることは、ほとんどないからかもしれません。一方、病気や怪我で寝込んだ時に、少しだけ内部に目を向ける事ができる可能性があります。顕在意識に対する潜在意識という言葉がそこから生じてきました。

『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』(マタイによる福音書、第二十二章37)という言葉もあります。新約、第一の掟である、この言葉に、それが尽くされているとも言えるのではないか。

スイフトの『ガリバー旅行記』には、天空に浮かぶ島「ラピュタ」の事が出てきます。その島に住む、科学に秀でた種族のラピュタ人は、片方の目が内部を向いている、という変な人達でした。
しかしそれは、彼らが自身の内部を見つめる人達である事を意味しているわけで、もしかしたら、主との一体化を達成した人達であったかもしれないのです。

しかし、人の内部に宿る主との一体化に関して、今後も研究を続ける予定です。

まだまだ暑い日が続きますが、どうぞお元気でお過ごしください。

植木淳一

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