2008年12月6日土曜日

★壬申の乱: かぐや姫の舞台背景(?)

●竹取物語の「かぐや姫」

かぐや姫というと「竹取物語」にでてくる女性主人公です。彼女は竹取の翁に拾われて育てられ、絶世の美女になりました。そして、うわさを聞いた五人の貴公子たちに求婚されましたが、結局、誰の嫁ともならずに、二十歳になったある十五夜の晩に、月から迎えに来た使者達とともに月世界へ帰っていったという、夢のようなお話になっています。

●竹取物語の舞台(どこ?なのか)

ところで、この物語のはじめですが、「いまは昔、竹取の翁というものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろずのことに使いけり。名をば讃岐のみやつことなむいいける。」(『いまは昔のこととなったが、竹取の翁というものがいた。野山に分け入っては竹を取り、いろいろなことに利用していた。その名を讃岐のみやつこと言った。』)とあります。

この「讃岐のみやつこ(造)」ですが、「古事記」の上巻にある第九代、開花天皇の項に、天皇の孫にあたる「讃岐垂根王(さぬきのすいねおう)」の名がみつかります。また、讃岐の垂根王の姪に「迦具夜比売命(かぐやひめ のみこと)」がいました。この迦具夜比売(かぐやひめ)は第十一代、垂仁天皇の妃(きさき)となり、袁邪弁王という名の子もいたそうです。
奈良県広陵町のHPより

ところで、この讃岐(さぬき)氏ですが、奈良盆地の広陵町にある讃岐神社が、この讃岐氏のゆかりの神社であるという話です。そうすると、竹取物語の発祥地は、奈良盆地の広陵町あたりということになります。この広陵町には、かぐや姫の名づけ親である「三室戸斎部(みむろとのいんべ)のあきた」の住んでいた「みむろ丘」も公園として残っているそうです。

さて、『竹取物語』の 「かぐや姫」は『古事記』の「迦具夜比売命(かぐやひめ のみこと)」がモデルだという「京田辺市」説があります。
『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女(おおつつきたるねの王の娘)、迦具夜比売命」とあり、「大筒木垂根王」とその娘「迦具夜比売命」のことが記されています。この筒木(つつき)は竹(つつの木)を意味しています。 この「大筒木垂根王」の弟に「讃岐垂根王(さぬきたるねのおう)」が記されています。また迦具夜比売命は、垂仁天皇の妃となっています。この第十一代:垂仁天皇は第十代:崇神天皇(すじんてんのう)「御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)」の子です。崇神天皇は「はつくにしらすすめらみこと」(はじめて日本を統一した)という初代:神武天皇におくられたのと同じ称号を送られていて、「木の国」(紀州?)にゆかりが深いものと、そのお名前から推測できます。

「大筒木」は、京田辺市三山木の継体天皇「筒城宮(つつきのみや)」にあたり「垂根」は「竹の根」の宮であると考えます。天皇名の「垂仁」に「垂」の字があるのも関連がありそうです。さらに、筒木は京都府綴喜郡の「綴喜(つつき)」を、かつては「筒木(つつき)」「筒城(つつき)」と書いて、孟宗竹(もうそうたけ)の「筒(つつ)」が用いられていて、『竹取物語』の竹を思わせます。また「筒木(つつき)」の「つき」は「月」を連想させます。この様に山本村周辺の「大筒木郷」である朱智荘と佐賀荘は月と大変深い関係にある場所で、ここに迦具夜比売命(かぐや姫)がいたと考える人がいます。
山城国の綴喜説

(私見ですが、「かぐや姫」を竹林から拾ってきて育てた「さぬきの国造」が讃岐垂根(さぬきたるね)の王だとすると、上記の話はつじつまが合うのです。この場合、かぐや姫は何らかの事情で讃岐垂根の王に(竹を彷彿とさせる大筒木の「兄」の元から引き取られて)育てられたことになる。そして、立派に成長して美女となり、宮廷にも知られて多くの求愛者がでた。そして、かぐや姫は最後に月に帰っていったという落ちだが、これは兄の元に戻った後か、天皇に娶られてお后となり、天(殿)上人になったことを意味していると考える。こうしてみると年代を無視すれば竹取物語と全く同じ話と考えられなくはないのです。

垂仁天皇は、お后が亡くなった後、殉葬を止めるお触れを出した天皇として知られています。この時から、古墳の周囲には殉死者ではなく埴輪が飾られるようになったという。また、垂仁天皇は「はつくにしらす すめらみこと」(はじめて国を統治した天皇)という称号をおくられた第10代の崇神天皇(すじん)天皇の第三皇子であった。)
京田辺市という説

●いつごろの話か(その時代と場所を推理する)

さて、「かぐや姫」が成長して、絶世の美女として名が知れ渡ると、多くの男性が一目見ようと姫の家を訪れます。そして、名のある五人の貴公子が姫に求婚をした話がでてきます。

それは、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、左大臣:阿倍御主人(さだいじん:あべのむらじ)、大納言:大伴御行(だいなごん:おおとものみゆき)、中納言:石上麻呂足(ちゅうなごん:いそのかみまろたり)の五人でした。皇子(みこ)というのは、天皇の子達や親族などの身分の高い人のことです。あとは、政府の要人で、天皇の補佐役である左大臣とか、その下にいる、大納言、中納言といった重要な役職についている早々たるメンバー達です。
この五人に関して、江戸時代に、加納諸平という学者が「竹取物語考」という本を書きました。それによると、この五人は「壬申の乱(西暦672年)」に関係のある人達であるというのです。
つまり、この五人を、石作皇子ー>丹比真人島、車持皇子ー>藤原朝臣不比等、左大臣:阿倍御主人ー>阿部朝臣御主人、大納言:大伴御行ー>大伴宿禰御行、中納言:石上麻呂足ー>石上朝臣麻呂、と比定して、帝を707年に二十五才で夭折した繊細で感性豊かな天皇、文武天皇とみています。彼らは皆、大海人皇子側についた者たちで、大宝律令の701年には高い位をもらいました。

この五人が「壬申の乱」の時代の人だとすると、この時代に都のあった近江京か、その近くの地域の物語ではないかと考えられるのです。そして、「竹取物語」は、少なくともその後の時代(壬申の乱の時代の後)に作られたものだということが言えます。

●壬申の乱(西暦672年)

壬申の乱とは、第38代、天智天皇(西暦626年−671年:在位661−671)の死後、その息子の大友皇子(おおとものみこ)と、天皇の弟とされる、大海人皇子(おおあまひとのみこ)との間で戦われた、皇位継承をめぐる争いでした。実際には、大友皇子は皇位を継承して天皇になっていたはずです。それで、明治政府は後世になって、大友皇子に「弘文天皇」(第39代天皇)の称号を与えました。

この戦いは、双方合わせて13万人位の軍勢で行われたのですが、最終的に大海人皇子側の勝利に終わり、大海人皇子は明日香清御原の宮で即位して第40代「天武天皇(在位:西暦673年−686年)」となりました。この後、天武天皇は日本最古の歴史書である「古事記」や「日本書紀」を編纂する命令をだして有名となりました。一説には、天武天皇が皇位を奪ったという非難を避けるために、日本書紀では、大友皇子が天皇に即位していないように記述したといいます。

しかし「古事記」成立の事情は、その序文によると、天武天皇が国をおさめる基本ともいうべき帝紀・旧辞が誤り伝えられようとしているのを恐れ、正しく伝えるため、舎人(とねり)の稗田阿礼にそらんじさせた。この仕事は天武天皇の死で中断しましたが、第43代、元明天皇(在位:西暦707年−712年)の命令により、阿礼が暗誦(あんしょう)していたものを、太安麻呂(おおのやすまろ:太朝臣安萬侶)が撰録(せんろく)し、712年(和銅5年)に天皇に献上したのだそうです。

ここで興味深いことは、中国で「壬申の乱」を、「倭国」と「日本国」の争いと捉えていた可能性があるということです。壬申の乱

『旧唐書』の中には日本について「倭国伝」と「日本国伝」の二つが立てられていることがありました。これは戦乱による編纂過程への影響であるとも考えられており、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれてしまったと考えられている。ただし、「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中には、「白村江の戦い」及び「壬申の乱」が含まれており、大庭脩はこれを単なる編纂過程のミスではなく、当時の中国側に壬申の乱をもって「倭国」が倒されて「日本国」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。

また、「東夷伝」には「日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。(日本国の民は倭国とは別の種族である。その国は日の近くにあることから日本という名にした。あるいはいう、倭国はその名を雅でないため良くないと考え日本にあらためたという。また日本はもと小国であったが倭国を併合したという。)」ともあり、一般的となっていない見解も載せられている。
『旧唐書』

この時代、聖徳太子が遣隋使を中国に派遣した時のことだとすると、当時の日本は仏教を推す蘇我氏の勢力下にありました。先の文面は聖徳太子が中国の皇帝に送った文書に書かれていたことかもしれません。しかし蘇我氏は後に、神道系を推す中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足により滅ぼされてしまいます(大化改新)。そして中大兄皇子は天智天皇として即位します。
この後、天智天皇は百済の救出を目的に大軍を朝鮮半島へ送りますが、白村江で唐と新羅の連合軍に大敗し帰還します。そして近江の宮(大津)に遷都します。やがて天智天皇は病になり、息子の大友皇子を立太子に立てます。そして、大海人皇子を枕元に呼び皇位継承を話すのですが、彼は固辞して出家し吉野へ落ちのびます。罠にはまらなかったのです。もし承諾の返事をしたなら、反逆の罪を着せられて殺されていたかもしれなかったのです。このことを使いの者が彼にそっと教えていたのでした。
こうして天智天皇が亡くなった後、大友皇子が政治を行いますが、即位して天皇になっていたことが後世(明治時代)に追認されて弘文天皇の称号を送られています。

吉野に逃れた大海人皇子は、東から数万の軍勢を集めて近江京を攻撃しますが、大友皇子も同様の軍を集めて近江宮で迎撃体制をとります。しかし、防御軍内に反乱が起きて大将が死亡、大友軍は敗走するはめに陥ります。最後に大海人皇子の軍勢に包囲されて大友皇子は自害し、壬申の乱は終結します。
大海人皇子は飛鳥清御原宮で即位し天武天皇になります。蘇我氏を母にもち、天智天皇を父にもつ「うののさらら」(後の持統天皇)は天武天皇の妃となり、後に皇后となります。そして草壁皇子を生みます。
天武天皇が崩御した後、北九州・那の大津生まれで天武天皇の皇子である大津皇子(母は天智天皇の娘)は謀反の疑いで殺害される。そして、うののささらは息子の草壁皇子を皇太子とするが即位前に病気で早世する。それで自分が飛鳥清御原宮で即位し、持統天皇となる。
以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続くが、称徳天皇の死後、天智の孫・白壁王が光仁天皇として即位し、それ以降は天智系統となる。こうした神道を押す天智系と、仏教を押す天武系との抗争がこの時代背後にあったようです。このような動きを中国側が知っていたのかもしれません。

(この当時の日本国というと、大和地方にあった国のことでしょう。東北にも日本国があったという説が一時流行りました。仏教を推す蘇我氏(聖徳太子を含む)に殺された物部守屋をはじめとする物部氏は、東北に避難して安部氏を名乗るようになりました。また奈良の三輪山の麓にある三世紀ごろの王都と考えられる纒向遺跡から考えると、九州にあったと考えられる邪馬台国と同時期に、奈良盆地にも出雲とか吉備、越の国や静岡方面から人を集めて、首都のような集団を組織していた形跡があります。これらは銅鐸の文化圏にある地域です。それが日本国として中国に知られていたのでしょうか。また「日本国の民は倭国とは別種」という意味は、アイヌ人を意味しているのかもしれません。そうなるとアイヌの住んでいた中部地方から東北にかけての地域を指しているのかもしれません。)

以上、簡単ですが、なんとあの「かぐや姫」が記述された「竹取物語」は、日本の最古の歴史書である「古事記」や「日本書紀」の時代を背景に製作されたというお話でした。

竹取物語の中では、かぐや姫に言い寄った五人の貴公子達は皆、姫に振られます。また、五人の中の車持皇子が、藤原不比等であったとすると、後に繁栄する藤原氏の頭領であり、「日本書紀」の製作者でもあったので、藤原氏全盛時代にはこの物語は存続できなかったのではないかとも考えられます。そうなると、竹取物語はその後の時代の製作だと考えることもできます。
とにかく、天智天皇の娘であり天武天皇の后であった持統天皇と、藤原不比等の時代に書かれた「日本書紀」をもとにして、壬申の乱を推測するしかないのです。

また、かぐや姫が「天の香具山(かぐやま)」を象徴する者だという連想もあります。

初代の天皇である神武天皇が、ニギハヤヒの治める大和の地(奈良)に攻めいったときに、ナガスネ彦の軍勢に行く手を阻まれ進めなくなった時のことです。夢のお告げで「香具山」の土を取ってくれば、大和に侵入できるというので、家来を二人、粗末な身なりをさせてゆかせました。途中で出会った軍勢達は二人を見て笑って通したのでした。そしてその二人は見事に香久山の頂にあった土をもって帰ります。こうして、神武天皇の軍勢は大和に入ることができたという話です。
この話から、呪術的な意味とか軍事的な意味で、香久山かその付近の勢力が重要な役割を果たしていたことが想像できます。(「天の香久山」は天から降ってきた山だ、という伝承があるそうです。落下してきた隕石か?あるいは・・・)

壬申の乱から千三百年ちかく経過した今となっては、当時の状況を、そうした物語から想像するしかないのでした。

「春過ぎて夏来にけらし 白たえの衣干すてふ 天の香具山」 持統天皇

(はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あめのかぐやま)読み
「春がすぎて夏がきたようだ 白妙の衣が干されているという 天の香久山よ」(直訳)

「春が過ぎて初夏になったようだ。天の香久山でも、真っ青な空に白い衣が干されて風にひるがえっている様が、とてもすがすがしく感じる。さらに、初夏の強くなった陽射しが、その白い衣に反射して、まぶしいほど目にあざやかに映る。」(というような情景を詠んだと考えられます。)
これは、香倶山(かぐやま)の曽我氏ゆかりの神社の神官や巫女たちの着ている白装束が、洗濯されて干されている情景でもあります。

この歌を詠んだときに、持統天皇の胸の中には何が去来したのだろう。

持統天皇は、和名が「高天原廣野姫天皇」(たかまのはら ひろのひめの すめらみこと)という、天上界(高天原:神々の住んでいたところ)の名前を持っている唯一の天皇でした。

植木淳一 2008年12月6日

2 件のコメント:

Po さんのコメント...

かぐや姫が実話だとすると夢が広がります。

Wood さんのコメント...

こんにちはPoさん。竹取物語の「かぐや姫」と民話にある「かぐや姫」は別物と考えた方が夢がひろがると思いますね。竹取物語の方は垂仁天皇の時代だとすると、日本の統一王朝ができたばかりの頃の話でしょう。かぐや姫が天上人(天皇の住む御殿の上に上がれる人)になったというのが実態だとすると、あまり面白い話ではないです。