2008年6月9日月曜日

禅をしていた友人の事

今日も一日が過ぎ行くのを、慌ただしさのなかで感じています。

人は一日ごとに死に向かい歩みつづけます。しかし普段は、そうした最終の到達点に対して、何も考えもしないのです。個人のちょっとした喜びや怒り、興奮や落胆などの感情は、その人にとっては大変なことなのに、隣の人にとってはおそらく気にすることもない出来事です。

人が生きていることは、そうした日々のちょっとした喜びとか楽しさ、達成感や充実感という果実をつみとることではないかと思うのです。

若者にとっては、目標の設定とそれへのチャレンジ精神が必要とされ、日々を賢命に生きぬく努力が美しい一日をかたちづくります。老人たちにとっては、ゆったりとした充実感のある一日が、なによりも大切なことかもしれず、また人生の終着点への視線がときどき意識されるのです。

青春時代に「禅」をしていた友人がいました。
一度、彼の道場へ連れてゆかれたことがあるのですが、皆、おだやかな人達でした。でも、心の中では普遍的な何かを求めているのでしょう。なにかきりっとした清涼感があるのです。そこで一時間ほど座らせてもらっていると、静かで、ときおり鳥の声や風の音が聞こえるだけで、春のせいか、なにか暖かで穏やかな雰囲気がただよっています。目を閉じると人が隣にいることすら忘れてしまいそうでした。

友人は、禅の師匠から「考案」をもらっていました。
彼の話によると「死とは何か」「生とは何か」というものらしいのです。彼は、それについて色々語っていましたが、残念なことに、ひとつも通らないで他界してしまった可能性があります。

でも、彼が事故で息が絶えた瞬間に、その考案の答えが得られたのかもしれないと今では考えています。皮肉な事ですが、それは誰にとってもひとつの真実ではないかと思うのです。

人にとって、死はひとつの終末点なのか、それとも別の生への入口点なのでしょうか。結局、誰もが、いつかはそれを体験し、答えを得るだろうと思うのです。

 エドガーケイシーなどは、転生(生まれ変わり)を説いています。そして、地上の人間は過去に多くの人生を体験してきているのだといいます。ただし、通常そうした記憶が幼いうちに失われてしまうのだそうです。それでも時おり、そうした過去生の体験を思いだし親に話す子供達がいます。そうした話も、ことの真実がいつか私達の眼前に提示されるわけです。
 それを楽しみにするべきなのでしょう。

植木淳一

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