2008年11月2日日曜日

「まぼろしの邪馬台国(やまたいこく)」を見てきました。

昨夜は「映画の日」だったので、公開された「まぼろしの邪馬台国(やまたいこく)」を見てきました。
この映画には、島原鉄道の社長であった著者が考古学にのめりこんでしまい、会社を追われた後もなお「邪馬台国」を探しつづけるロマンが描かれています。http://www.mabotai.com/

この映画は、多彩な登場人物も必見です。

「まぼろしの邪馬台国」というのは、同名の書物があり、この映画の主人公の著作でもあったのです。同書が、私の父の書庫にもあったので、私は昔、この書を読んで邪馬台国とそのロマンを知ったのです。この著作は出版当時「吉川英治賞」を受賞しています。

「邪馬台国」は中国の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん:『三国志』魏書東夷伝倭人条)」に出てくる、日本(倭:わ)に関する書物中にあります。これがいま流行の三國志(映画「レッド・クリフ」{三國志中では「赤壁の戦い」としてでてくる}がある」)、魏、呉、蜀、の時代の、巍の国の歴史書に記された最初期の日本に関する書なのです。この邪馬台国は、女王・卑弥呼(ひみこ)が30ヶ国ほどをまとめて、呪術(鬼道)により統治していましたが、いまだにその所在をめぐり様々議論が行われていてはっきりしません。
魏志倭人伝 魏志倭人伝全訳

●日本の古代史に邪馬台国に関する記載がない(?)
その問題点は、いくつかあります。
もっとも重要な問題点は、日本の古代史を書いたと考えられる天皇家の出版した「古事記(こじき)」に、その記述は全くなく、少し遅れて記述された「日本書紀(にほんしょき)」には、邪馬台国の女王「卑弥呼」が仲哀天皇の皇后である「神功皇后(じんこうこうごう)」(在位:201年から269年)であるように記述されていることです。
しかし、卑弥呼は中国の「巍」の国に朝遣の使者を出して臣下の礼をとりましたが、神功皇后はそのようなことはしなかったようです。

(卑弥呼に関する年代記述)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
# 光和中(178年 - 184年)卑弥呼が共立され倭を治め始める。『梁書』
# 景初三年(239年) - 卑弥呼、始めて難升米らを中国の魏に派遣。親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる。「魏志倭人伝」
# 正始八年(247年)またはその直後に卑弥呼が死に、墓が作られた。(魏志倭人伝)。『梁書』には正始中(240年 - 249年)卑弥呼死亡。

当時の朝鮮半島は戦乱の中にありました。そして中国の魏の国から遠征軍が派遣され、制圧されて収まったのです。
日本書紀の記述では、日本が朝鮮半島へ兵を送りました。そのとき神功皇后は夫である仲哀天皇の遠征に同伴しました。しかし、その途上で仲哀天皇が亡くなられたので、その代わりになって働き、朝鮮半島で軍勢を率いて戦い朝鮮半島の新羅国を降伏させたというのです。

さて「魏志倭人伝」には「卑弥呼の死後、男子王を立てるが、国中が服さず大乱となったので、子女のトヨを立てて収めた」ことが記述されています。ところが、神功皇后が卑弥呼だとすると問題があります。それは、神功皇后の息子は応神(おうじん)天皇(在位:270年2月8日-310年3月31日)であり、応神天皇の息子が、次の仁徳(にんとく)天皇(在位:313年2月14日 - 399年2月7日)となりました。応神、仁徳、両天皇の御陵は、大阪堺市の百舌(もず)古墳群にありますが、どちらも日本最大の前方後円墳でありますので、両天皇の力の大きさが想像できます。ですから、そのような時代に、日本が大乱に陥ったということは想像できません。また、卑弥呼の子女の臺与(トヨ)を立てたという事もなかったわけです。
(応神天皇に関してのHP)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

このように、なぜ、日本の「正史」と「魏志倭人伝」の記述に違いがあるのかが問題となります。
つまり日本書紀の年代記述と外国の年代記述が卑弥呼に関して正確に一致していない。また同時代の(日本書紀の)天皇の系譜に関する記述と、魏志倭人伝の記述内容との不一致が指摘されます。

結局、歴史書の記述からは、邪馬台国の女王「卑弥呼」が「神功皇后」と同一人物でない可能性があるのです。
そして「邪馬台国」の女王卑弥呼が巍の国に朝献したのは、朝鮮半島南端の倭国の領土を守るために、魏の国に「臣下の礼」をとったものと見受けられます。つまり形式的に魏国の配下の国としての地位に甘んじておけば、攻め取られないで済むからです。

こうなると、神功皇后の新羅征伐という話も内容を吟味しないとまずいようです。つまり、神功皇后が、朝鮮半島を制服した話は嘘講だということになります。歴史的事実として魏の国が制服し領有していた(帯方郡)からです。しかし、朝鮮半島南端の倭国領土内の反乱を鎮圧したくらいのことならありえます。しかも、それは比較的簡単な仕事でしょう。
もうひとつの可能性は、新羅の反乱を抑えるために魏の国から派兵を要請され、魏や他の国々と共に新羅を制圧した、というものです。これも邪馬台国の女王卑弥呼が臣下の礼を取っていたためにありえることです。家臣は親の国(魏)に加担しなければなりません。その話が、伝わったものではないかと考えるのです。

しかし、邪馬台国が日本の大和あるいは「大和朝廷」であるとする仮説は、まだ完全に肯定されない可能性が残ります。つまり、朝鮮半島の南端の倭国領土は、邪馬台国を攻め取った国が領有できるからです。
また、大和朝廷が邪馬台国だとしても、当時の邪馬台国の中心がどこにあったのかに関して、まだ議論が残るのです。

●倭人伝の距離の問題(一里=109mか?)
また、「魏志倭人伝」中に記述されている距離にも問題があります。韓国の南から海を渡って「一千余里」で「対馬」国に至り、また海を渡り「一千余里」で「一大」(壱岐)国に至る、「又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。」と書かれています。
この距離を、韓国のプサンから北九州の北岸とすると、約200km(直線距離)くらいになります。またこの航路を、このページ最初に掲載されている地図で考えてみます。すると最初に、韓国のプサン港から対馬の比田勝港(60-70km)までゆき、次に比田勝港から対馬の厳原港(50-60km)にゆきます。そして、厳原港から壱岐島(60-70km)に渡り、島を半周して、北九州北岸の松浦半島(直線距離で約22km)を目指し、陸に近付いてから港を目指すという航路です。

ところで、この「千里」をいまの算法(一里=4km)で計算すると4000kmになり、とても現実的ではありません。(地球半径の64%)。ところが対馬と壱岐の島間の航海路長を60kmとすると「条里制」で用いられた「1里=109m」(千里で109km)の半分くらいの長さを用いた方が現実的に思われます。さらに、海路での帆船は、まっすぐに進まないでジグザグに進んだり、海流に流されて長い距離を進まざるを得ません。そのために、直線距離で距離を計ると、実際の航海路の長さとの間に大きな差が生じます。このために、一里=109m(千里=>109km:直線距離ではなく道のり)と考えることにします。

古代の日本では、中国から輸入された条里制における109m四方の土地の面積を一里{=1町}としましたが、その辺の長さを、面積の「一町」の四角の一辺の長さを距離の単位である「一町」として用いたように、長さをはかる単位としての「一里」を用いるようになった可能性があります。少なくとも魏志倭人伝中では、そう考えた方が実際の距離との間に適合性があるように思われるのです。
条里制 条里制2

それで、「一里=109m」とした「千里=109km」を当時の帆船の航路長とした方が、実際に近いと思うのです。
このように、当時の日本で用いられた短い「1里」(実際には1里=109m{条里制の1里の辺の長さ}で計算すると実際の距離に近い)を用いると、魏志倭人伝中の距離に関して理解しやすくなるように思われるのです。(陸路も概算できる)

さらに、当時の航海では、航海距離をそれほど正確には測定できなかったために、船で一日行く行程を単純に「一日の航海距離=千余里」としたのかもしれません。当時は明るい間しか航海しなかったのです。

●韓国プサン港から対馬、壱岐、松浦付近へ
さらに、「一大国」(壱岐)から「一千余里」で「末廬(まつろ)国に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。」とあります。
到着した北九州沿岸の「松浦(まつうら)」付近だろうと思われる地名です。壱岐島から船で九州へ行くには、一番近い松浦半島へ向けて漕ぎ出すのが普通です。船は最短距離の陸を目指して進むのが普通ですから、壱岐から出発して、船は一番近い北九州の陸地である松浦半島へめがけて進むので、松浦半島の近くに到達するでしょう。末廬国が松浦半島(あるいは同半島を含む一帯)で、壱岐からは船で、この半島を目指して進み、同半島南西部にある郷ノ浦港、あるいは南東部にある印通寺港、東部にある芦辺港、北部にある勝本港のどれかに寄港したかもしれません。もっとも、この時には中国からの使者なので、末廬国の中心部分に詣でるために、その近くの港へ行った可能性も高いのです。
壱岐ー末廬国間が、韓国ー対馬間、対馬ー壱岐間と同じ「千余里」と記載されています。この距離は、松浦半島のもっと東側の博多湾近くでも可能です。現在、博多湾から壱岐と対馬へ向けてフェリーが出ていますが、その所要時間をみてみると、博多椀から壱岐までと、壱岐から対馬までの所要時間がほとんど同じなのです。つまり壱岐から九州北岸へ到着した港が、博多湾かその近辺くらいの距離にある場所と考えられるのです。

●壱岐対馬フェリー・時刻表
http://www.iki-tsushima.com/timetable.html
.......博多-->壱岐--->対馬.........対馬-->壱岐--->博多
.......0:30>2:45 2:55>5:20.......15:10>17:30 17:40>20:00
所要時間 2:15......2:25...........2:20.......2:20

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行き来に要する時間に5分程度の差がありますが、これは日本海流があるため、潮の流れで行き来に若干の航行時間差がでるものと考えられます。(北九州沿岸では逆に東から西向きへ海流があるのか?)
これから、壱岐と博多間、壱岐と対馬間は、ほぼ同じ時間で行き来できる航路の長さだと言えます。これは古代の帆船でも同じでしょう。また、一大国は壱岐(いき:一支を誤記)国のことだと断定できるでしょう。そうなると、壱岐から最初に到着する末盧(まつろ)国というのも、博多の近辺か、それと同じくらいの距離の場所(現在の松浦{まつうら:定説}かさらに西方の呼子の可能性もある)と考えてよいと思われます。九州北岸近くでは、海流が東から西へ流れているようなので、西側岸に到着するほうが容易なのかもしれません。あるいは国防上の必要から、軍部が駐留していたと考えられる伊都(いと)国から離れたところに寄港させたのかもしれません。もっとも可能性が高いのは、大陸からの渡来船は末廬国の首都がある所(唐津湾沿岸か伊万里)へゆくことが、当時の規則であったのではないか、ということです。
上記は、当時の北九州の地形が現在の地理と同じと考えた場合のことです。(実際には若干変化があるようです。)また、地名も故意に変更されていないとした場合です。

●当時の帆船の速度
当時の帆船の速度はどれくらいかを調べたのですが、平均、9ー10km/時というのがありました。また、コロンブスのサンタ・マリア号が、平均すると4ノット(Kt)(7.4km/時:最高速度14.8km/時)の程度だと書かれていました。

朝鮮半島と北九州の間の「対馬海峡」の幅は約200kmなので、これを横断するには、4ノットだと27時間、5ノット=9.26km/時だと21.6時間、6ノット=11.112km/時だと18時間かかります。当時の帆船が、朝七時に船出して午後五時ごろまで航海すると一日11時間の航海時間が上限でしょう。(暗くなると危険なので陸地に近寄れない)。平均9ー10km/時という数値が妥当なら、一日最大100kmはすすめたわけです。ですから、朝鮮半島の南から北九州間の海峡200kmは、帆船で少なくとも2日はかかるということです。

また、直線的な距離だけでなく、島の港へ回りこむ時間などが必要となります。さらに、対馬海流は流軸(最大)で、速度1ノットだということなので、これにより船が横方向(西から東)へ流されることも考慮しなければならないでしょう。このために、航海時間を何割か増加させなければならず、結果として韓国南岸から対馬にかけての航海と、対馬から壱岐までの航海、そして、壱岐から北九州までの航海と、対馬海峡の横断を三回に分けて渡海したと考えられます。

●対馬海峡を渡る経路(想像)
○韓国のプサン港から対馬の比田勝港(約65km)
○比田勝港から対馬の厳原港(約60km:この行程は省略可)
○厳原港から壱岐島(約65km)
○壱岐島から北九州北岸の松浦半島(直線距離で約22km)
 陸地に近付いた後、陸づたいに港へ向かう。
 (kt は速度ノットをあらわしている。1kt=1.85km/時間)

航路上の速度  所用時間      船に必要な速度
1kt 65÷1.85=35.1(hours)   √(1+1)=1.41 kt =2.61 km/s
2kt 65÷3.70=17.5(hours)   √(4+1)=2.24 kt =4.15 km/s
3kt 65÷5.56=11.6(hours)   √(9+1)=3.16 kt =5.85 km/s
4kt 65÷7.48=_8.8(hours)   √(16+1)=4.12 kt =7.63 km/s
5kt 65÷9.26=_7.0(hours)   √(25+1)=5.02 kt =9.3 km/s

(距離65kmを渡る為の速度と時間。対馬海流の速度を1ノット[kt]とする。)
(この海流のために、船は直角三角形の斜辺を走ることになる。)
(明るい昼間しか航行できないので航海時間は10時間が限界だと思われる。)
(上記から船の速度は3ノットでは不可能に近い。帆船はジグザグに進むため。)
(そのために速度は4ノットは必要で、ゆとりを考えると5ノット位か。)

上記から考えて、帆船の速度は4ノット以上はあり、対馬と壱岐にそれぞれ少なくとも一泊して、次の朝か、風向きや天候が良くなった日を選んで出航したと考えられます。
当時の航海は、帆船なので、風向きや天候に左右されます。そして、天候がよくなり風が順風になった時に出航したのです。魏史倭人伝には、途中の宿泊日数が書かれていないのですが、これは天候により行程途中の日数が変わるので、行程を里数(距離)で表示したものと思われます。

●九州へ上陸した後の道筋(松浦ー糸島ー博多湾?)
この「末廬国」(まつろこく:平戸から松浦付近)からは陸行となります。「東南のかた陸行五百里にして、伊都國(いとこく)に至る。」と五百里のところ(歩いて54.5km:1里=109m)に伊都国(いとこく:糸島(いとしま)半島「糸島郡」に名残がある)があることを記しています。「千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」とあります。
これから時代をくだり、遣唐使などの派遣された頃には、博多湾の沿岸に近い地域で香廬舘(こうろかん)と呼ばれる迎賓館のようなものが設置されていました。そこへ福岡平野の奥にあった太宰府から役人が派遣されて、入出国管理のような事が行われていました。また外国からの使節の滞在場所でもあったのです。ですから、その時代から比較すると、そうした検閲制度はずいぶん変わったのでしょう。
この「郡の使の往来して常に駐る所なり。」の記述から、伊都起点方式と呼ばれる国の配置法が生まれました。つまり、伊都国を起点に、東南に奴国、伊都国の東に不彌国(ふみこく)というように、以下に記述される邪馬台国に至るまでの国々を設定するのです。これから、中国からの使者が伊都国に滞在しているだけで、実際には邪馬台国に行かなかったか、邪馬台国と通過した以外の国は、単に方角と里数を聞いただけによる記述だった、という仮説が可能です。

●奴国=博多湾沿岸地域か。
つぎに「東南のかた奴國(なこく)に至ること百里。二萬余戸有り。 」として、東南に百里(10.9km)のところに、二万戸も有る大きな国の存在を記述しています。奴国は、糸島半島の東、志賀島半島で「漢の委の奴国の王の印(かんの・なの・わの・こくおうのいん)」と書かれた金印が発見されたことで有名です。(倭奴を「いと」と読み、かんの・いと・こくおうのいん、と読む説もある)

●志賀島から金印の出土
これは、中国の史書、後漢書の「西暦57年、後漢の光武帝が奴国の王に金印を授けた。」という記述の品物と同一の物であるとされています。これは卑弥呼の時代(景初2年:西暦239年魏に使者を送る)より182年も前に中国の歴史書にでてくる国でした。奴国は博多湾の北の志賀島半島付近にあったと考えられていますが、二万戸の戸数(人口十数万人くらいか?)だと、博多湾一帯が奴国であった可能性が大でしょう。(委奴国を「いとこく」と読む学者もいた。また、この金印は倭の大乱のときに奴国王が志賀島に隠したという説もある。)
http://hiroba.gnavi.co.jp/usr/kaigetsu/trip/detailTrip/20450#20500
つぎに「東行して不彌國(ふみこく)に至ること百里。(中略)千余戸の家あり。」とあります。糸島半島から博多にあった奴国に到る距離と同じくらいの道のりで、東側に、伊都国と同じくらいの大きさの「不彌(ふみ)国」があったのです。

●方向の問題
ここまでの記述で問題があるのは、東南と東が間違っているのではないかという指摘があります。45度くらい方向が違うというのです。地図上でみると、末廬国(松浦半島だとする)から伊都国(糸島半島の付け根の平野)までの方位は東北東か東北方向です。東南とは45度から九十度ほど反時計回りに方向がずれているように見えます。また、奴国は伊都国の東とも言えます。こうなると、不彌国は東ではなく東北方向ではないかと考えたくなります。

しかし古代人が、旅行でもっとも大切な方向を間違えるかどうかを考えると、あまりなさそうにも思えます。この時代には方位磁石は発明されていた(船舶用の方位磁石が西暦100年頃できたという)し、太陽の位置から南はわかるので、方向に関しては、ある程度正確であったはずです。もっとも、帯方郡からの使節団は、現地に住んでいた倭人に国のある方向に関して聞いただけかもしれません。あるいは、現在の地図と古代の地形(海岸線など)とは多少異なるために、このような問題が生じていると考えることもできます。
また、書かれている「方角」は、中国からの使節団が宿泊するところ、つまり、その国の首都のあるところか迎賓館への方角、とも言えるでしょう。そうなると、国の広がりの中にある場所なので、この「方向」に一定の幅が生じることになります。

●問題の記述。(投馬国から邪馬台国へ。)
「南のかた投馬(とうま)國に至る。水行二十日。官を彌彌(みみ)と日い、副を彌彌那利(みみなり)と日う。五萬余戸ばかり有り。南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。官に伊支馬(いしま)有り。次を彌馬升(みます)と日い、次を彌馬獲支(みまかし)と日い、次を奴佳テと日う。七萬余戸ばかり有り。」

ここで、里数による記述(海陸ともに)から、いきなり日数による記述にかわります。
ここは混乱しますが、伊都国から船で南方向へ二十日で投馬(とうま)國に到着する、と考える伊都国起点方式と、国が連続して並んでいて、不彌国から船で二十日のところに投馬国があると考える二つの考え方があります。(私は二十日ではなく三日の書き写しミスではないかと考えます。)投馬国は五万戸(25万人位?)もいる大国です。邪馬台国はそれを上回り七万戸(35万人くらい?)の人口を有する最大の国でした。

前者の考え方だと、伊都国の港から船で出発し、経路は色々ですが、結果として南方角に投馬国があるわけです。後者の考え方だと不彌国に港がなければなりません。
しかし、奴国を博多平野に設定すると、その「千余里(10.9km)」東に港のある国を設定することは難しいのです。不彌国のある方角を奴国の東ではなく、東北だとすると、博多湾の東沿岸に設定できるのです。しかし、投馬国へ「南」に水行して行くことは、「沿岸を遠回りしてその方角へ行く」という解釈しかできません。「南」が「東」なら、まだ可能性があるのです。そして問題の邪馬台国が、投馬国の次に出てくるのです。

●邪馬台国九州説と大和畿内説
この邪馬台国の位置に関して、大きく二つの学説があります。ひとつは大和朝廷のあった畿内説と、九州に所在を求める九州説です。先ほど述べた里数や日数をもとにして、記述どおりにつなげて行き、方向を無視して邪馬台国を探すと畿内説が有利となります。しかし、日数、方向を考えると、いくつか不合理が生じるので、中国からの使者が常に留まる所である伊都国を起点に、放射状に国を配列したり、円形に並べたりしてゆくと九州や山陰・山陽などが対象となってきます。

この映画(著作者の書いた「まぼろしの邪馬台国」)では、奴国が国の記述配列に二度出てくる(六番目と最後)ので、そのふたつを同じ国と決めています。すると六番目の「奴国」と最後の「奴国」を数珠の最初と最後のようにつなげて、国々の配置を決めたのです。

●投馬国から邪馬台国への日数
さて、投馬国の次は「南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」をどのように解釈するのかです。普通人は218kmくらいしかないところを歩いても一ヶ月はかからないでしょう。(218km÷30日=7.26km/日:一日約7kmの進行速度)。もっとも古代には道が整備されていないので、直線距離ではなく、山や谷、坂道や密林などを通らなければならないため、それほど早くは歩けなかったと思われます。
ところで、この「魏志倭人伝」は、現存する物がずっと後世になって転写されて作成されたものなのです。それで、後世の大和朝廷が誕生したころに書き写された書と考えると、大和朝廷のことを念頭に置いて考えれば、こうした長大な距離を表す記述に直してしまうことは十分に考えられます。
こうした中国の使者が旅する場合、通過する配下の国の王宮では、宴会が開催されたり名所を案内されるなど、様々な持てなしを受けるのが普通です。また、従者が多く行列をつくって歩き持ち運ぶ贈答品も多いので、それほど急ぐ旅はできないでしょう。それで、一般人から見ると、遅すぎる旅の日数が記録される可能性もあります。

しかし、この二国への道程に日数の記述があるために、全体に矛盾を生じ、邪馬台国への道筋に混乱が生じているのが実状です。

●妥当な道筋論(九州説)
ところで「郡より女王國に至ること萬二千余里」とあるのは、韓国のソウルあたりにあった中国の一部の「帯方郡(たいほうぐん)」の官庁から、中国の使者が女王国にでかけたときに、「約1万2千里」あったことを言っています。ここで、急にまた里数による記述が現れます。これは、本来の記述であると思います。つまり、行程途中の宿泊日数を考えると、雨風により停泊しなければならない場合などを考えると、前記のような日数による記述は不合理であり、いかにも不自然に考えられるのです。

また別の所では、帯方郡から朝鮮半島の南端の「狗邪韓國(くやかんこく:六世紀には「かや」と言っていた日本領土)に至る七千余里」とあります。以後、狗邪韓國から対馬国まで「千余里」、対馬国から一大国(壱岐)まで「千余里」、そこから九州の北岸の「又一海を渡ること「千余里」、末盧國に至る」までに、「七千里」+「千里」+「千里」+「千里」で合計「一万里」を使ってしまいます。こうなると、北九州の上陸地である末廬国から、卑弥呼の女王国までは、「一万二千里」ー「一万里」=「二千里(1里=109mだと218km)」の道のりしかないことになります。(末廬国から奴国までの道のりが五百里なので、二千里はその四倍の距離となる)

●日数の記述は後世に付加されたものか?
このように、それまでは里数で距離を表していたのが、投馬国から突然に日数で表す表現は、後世に付け足されたものではないかという疑いがあります。もちろん大和朝廷を意識したもので、こうすると、方向さえ無視すれば邪馬台国までの距離が延びて畿内まで到達します。

このように投馬国と邪馬台国への行程が、日数として記述された部分は、後世の付け足しの可能性が高いので、排除して考えると、「郡より女王国に到る万二千里」という記述から、簡単に邪馬台国への道が示されます。帯方郡から九州北岸へ到る「一万里」(水行十日)と、九州北岸から邪馬台国までの「二千里」(陸行)です。つまり、松浦半島から博多までの道のりの四倍の道程です。これが、古い、邪馬台国までの道のりの本来の記述であったのではないでしょうか。

●邪馬台国は伊都国の南に有る
邪馬台国は伊都国の南にあることが、魏志倭人伝には三回でてきます。

1.「南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。」
 伊都国から東に不彌国があり、その南に投馬国があり、また南に邪馬台国がある、という記述があります。

2.「女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。」
 これは、女王国の北の国々への道程では、里数と戸数が概略書かれていることを指しています。つまり帯方郡より狗奴韓国、対馬国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不彌国までは、戸数と里数が記載されていることを指す。つまり、女王のいる邪馬台国はこれらの国々(伊都国を含む上記)より南にある。

3.「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。」
 この諸国を管轄する「一大率」は伊都国に置かれていて、それは邪馬台国の北にあることを記している。つまり、邪馬台国は伊都国の南にあるのです。
 
このように見てくると、邪馬台国のある位置は、魏志倭人伝中で、伊都国などの国々の南にあることが明確に記されているのです。

それにしても、魏志倭人伝は解釈の仕方により、様々な解釈ができるあいまいな記述がなされていることは事実です。そのために、過去に様々な解釈がなされていたのでしょう。

また、記述されている道筋を現在の地図から考察すると間違いが生じる可能性があります。古代の海岸線は現在とは少し異なっていたと考えられます。実際、海岸にあった島や陸地が陥没して海中に没したり、河口が堆積物で埋め立てられて平野が拡大した場所もあるのです。さらに、後世に大和朝廷などにより地名が変更された場合もあるので、地名だけを頼りに探索することも危険があります。

●三角縁神獣鏡の発見
他に、卑弥呼が魏の国に使者を送って鏡を賜わった「景初三年」の記述のある鏡(三角縁神獣鏡:さんかくぶちしんじゅうきょう)があちこちで出てきます。

そして、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる三角縁神獣鏡が1953年に椿井(つばい)大塚山古墳」(前方後円墳、京都府山城町)から30数枚も出土し脚光を浴びました。さらに奈良・黒塚古墳で三角縁神獣鏡が大量出土しました。こうした三角縁神獣鏡が、奈良盆地と京都近郊のふたつの古墳から大量に出土したことで、大和説が脚光を浴びた時期もありました。

しかし、三角縁神獣鏡は全国各地から出土し、その枚数は400枚を越えてしまいました。魏の国から卑弥呼へは百枚しか下賜されていないのにです。これは、鏡のコピーがなされていたことが背景にあるようです。こうして、三角縁神獣鏡は後世の偽作では無いかという疑惑が起きました。
中国の研究家は、三角縁神獣鏡と同じ鏡やその鋳型は巍の国から出土しないこと、同鏡に書かれている文書の研究から、韻を踏む当時の魏の国でつくられた鏡ではない(三角縁神獣鏡は韻を踏んでいない)という学者が多いそうです。つまり卑弥呼が巍王から賜わった鏡百枚は、巍の国で出土する「蝙蝠鈕座内行花文鏡」「位至三公鏡」「双頭竜鳳文鏡」「方格規矩鳥文鏡」「漢鏡6期の方格規矩鏡」「鳳鏡(きほうきょう)」「獣首鏡」「三角縁盤竜鏡を除く竜鳳鏡」「飛禽鏡」「円圏鳥文鏡方格規矩四神鏡」などが同時代の鏡だというのです。もともと、鏡は持ち運びができるので、卑弥呼が味方の王たちに分配したとか、後世に移動させた可能性もあり、決定打とはならないとも言えます。しかし、そうした作為を越えて、統計的な方法によると、九州地方から出土した、魏と西晋の時代の鏡は九州地方に圧倒的に多いといえます。(卑弥呼のもらった鏡:参照)http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku236.htm

●邪馬台国東征説
さて、日本の歴史書である古事記や日本書紀の記述では、神武天皇(カムヤマト・イワレヒコノミコト)が九州から東征して、奈良の橿原の宮で即位し日本で最初の天皇になったことが記述されています。
このことから、九州にあった邪馬台国が、卑弥呼が亡くなった後、壱(臺)与の時代から東征をはじめて、奈良の地に勢力が移動したのではないかというのです。この裏付けとして、大和・畿内を中心とした「銅鐸文化」が突如として消えうせ、それと前後して大和朝廷の支配が確立しています。
もし地元、奈良地域の支配が続いていたのなら、銅鐸文化の何らかの残存的影響が畿内に残っているはずだと考えられるのです。そうなると大和や畿内地域は、他から来た集団に支配されたという可能性が出てきます。また、九州甘木市・朝倉市の周囲に残る地名と奈良盆地の周囲に残る地名の多くが一致するので、両方の土地の勢力がどちらかに移動した痕跡と考えられています。これはいまも残る大きな謎のひとつです。

最近の調査で、大分県の西都原(さいとばる)古墳群のなかに、日本最古の前方後円墳があることがわかったというニュースがありました。このあたりは、神武天皇が元住んでいた場所に近いのです。ですから、この辺りにそうした古墳があってもおかしくはないわけです。ですから、この近くにあった勢力が東遷して、奈良に移動したということは、古事記や日本書紀に書かれている時代とは全く異なりますが、古墳時代の頃として考古学的に説明ができるわけです。

●卑弥呼の墓は見付かるのか?
こうなると、「径百余歩」という卑弥呼のお墓の発掘が急務となるのですが、やはり後世に証拠を隠滅された可能性もあり、未だに特定されていないのが現状です。また卑弥呼のお墓に殉葬された百人を越える奴婢たちの骨を発掘しても、天皇墓には殉葬されたものもあるので簡単には特定できない可能性があります。しかし、垂仁天皇の時代に殉葬をやめるようにした記述もあり、これは古墳の古さを推定する基準になるかもしれません。また、殉葬された遺体が発掘されれば、遺骨や遺物などから、埋葬年代がわかる(木や植物などの放射性炭素などから)可能性もあると考えられます。

とにかく、邪馬台国は中国の歴史書中に記述されているにも関わらず、千数百年経過しただけで、その在りかもわからないという不思議な国なのです。
この疑問を解決するには、時間と興味だけが、この問題を継続して探求することを可能にしてくれるのです。この問題にご興味のある方は、関係書籍やHPをご一読ください。

●邪馬台国論争
●邪馬台国比定地一覧
●魏志倭人伝のみちが蘇る日韓の風景街道



植木淳一

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