2009年11月20日金曜日

★奈良の纒向遺跡(まきむく・いせき)で宮殿跡とも考えられる遺跡が出土

★邪馬台国の最有力候補?
奈良県の「纏向(まきむく)遺跡」で、大型の宮殿跡とも考えられる遺跡が出土して話題になっている。
これは古代の邪馬台国(やまたいこく:やまとこく)の女王:卑弥呼(ひみこ)の宮殿跡ではないかとする意見もあるが、詳細はまだわかっていない。(卑弥呼が中国の魏に使者を送ったのが、3世紀前半の239年)。
この「纏向遺跡」は、藤原京に匹敵する規模の大都市で、3世紀後半から4世紀はじめにかけて最盛期を迎え、運河が掘られ、大きな市が開かれていたという。また日本最古級の纏向型前方後円墳があることから、纏向が前方後円墳のはしりだと考えられている。遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルに及び、その形は楕円形で面積は3000m2に達するという。
http://mainichi.jp/select/wadai/graph/makimuku/
私は、魏志倭人伝からの記述により邪馬台国九州説をとりたいのですが、同時代に別の勢力圏が、九州と機内に存在していてもおかしくはないと思います。この根拠として、畿内を中心とした地域に特徴的な「銅鐸」文化がなぜ突然に消えたのか、その伝承も残っていないなど、機内の歴史には不可解な部分があるのです。

また、古事記や日本書紀には、「纏向遺跡」のある磯城郡(しき・ぐん)に首都を置いた「崇神(すじん)天皇」に、初めて日本を治めた天皇である「はつくにしらす・すめらみこと」という称号が書かれています。(初代の神武(じんむ)天皇にも書かれているが、実在性を疑う学者もいる)。そのことから、ここが古代の「日本の初めての首都だった」という可能性もあるわけです。同遺跡からは、山陰地方や北陸地方、東海地方や近畿地方、備前など各地の土器が出土しているので、それらの地域から人々が集まってきて、交易をしたり都市生活を営んでいたものと考えられています。また、この「纏向遺跡」の名は旧:磯城郡・纏向村(しきぐん・まきむくむら)の村名に由来するという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1

歴史をひもとくと、日本の最初の歴史書である「古事記」や「日本書紀」には、
●第十代・崇神天皇 古事記には師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)日本書紀には「磯城(しき)瑞籬(みずかご)宮」(在位:BC97年ーBC29年)
●第十一代・垂仁天皇 纏向珠城(まきむく・たまき)宮(在位:BC29年ー西暦70年)
●第十二代・景行天皇 纏向日代(まきむく・ひしろ)宮(在位:西暦71年ー130年)
があります。(天皇名と居住した宮殿)

こうした古事記や日本書紀からの年代が正しいとすると、崇神天皇からの「磯城郡・纏向」の宮は邪馬台(やまと)国以前の都と考えられますが、「纏向遺跡」は前記のように、邪馬台国の時代(239年に魏の国へ朝遣した)より後に発展しています。(つまり歴史書と考古学的発掘結果とは若干の年代の相違がある。また、3世紀前半の遺跡も若干あるという。)「また出土した土器の年代から考えると、九州勢力が最後にここへ来たらしいので、邪馬台国東遷説も可能性としてはあるわけです。つまり最後に来た九州勢が、この地域を中心として周辺各地を支配(あるいは連合国家と)していた「纏向」を乗っ取り「大和(やまと)」にしたわけです。

しかし、まだこの遺跡の発掘は一部に過ぎないので、全貌はよくわかっていないそうです。もしかしたら、日本で初めての国家の首都であり、何かの貴重な出土品が出る可能性もあるので、今後の発掘に期待したいです。

植木淳一

19 件のコメント:

Unknown さんのコメント...
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Unknown さんのコメント...

これは、多分に素人の言葉のお遊びに過ぎないかもしれませんが・・・。
崇神(すじん)天皇の御在所であった、師木(しき)の水垣宮(みずかきのみや)が磯城(しき)郡の「纏向(まきむく)遺跡(いせき)」にあったとすると、あるイメージが浮かんできました。
それは、「纏向(まきむく)遺跡」には運河が掘られていて、様々な物品が「大きな市場」で交易されていたらしいことからきました。
それで崇神天皇の住まわれていた宮殿「水垣宮(みずかきのみや)」は、こうした運河に囲まれた水のお堀中にあったのではないかということです。これは「水垣」が「水の垣根」を意味することからの単なる連想です。

崇神天皇は『古事記』では「御真木入日子印恵命(みまきいりひこ・いにえの・みこと)」という和名をもち、『日本書紀』では「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこ・いにえの・すめらのみこと)」となっています。(原文は漢文なので各漢字は音を当てて用いていると考えられる)

この「みまき」は「水の真ん中にある城(き)」あるいは「水に囲まれた城(水垣の宮)」と考えて、「水真城(みまき)」「水御城(みまき)」という意味にもとれるわけです。「日子(ひこ)」は「彦(ひこ)」であり、古代の首長男性の名前に多い。これは、もしかしたら「太陽神(日:ひ)」をあがめる教団の神の代弁者(日の子)という意味かもしれない。天からの使いが「天子(てんし)」ですから。また卑弥呼(ひみこ)は女性だから「日(ひ)の巫女(みこ)」ということになる。「入(いり)」は「入る」という意味だろうか。こうした言葉から、その深い意味を探ろうとする試みは面白いですが、妄想に陥らないように気を付けなければいけないと思うのです。

植木

Unknown さんのコメント...

下記に示すKawakatu氏のご意見は、この時期の日本国家の成立過程を考える上で示唆に富んでいると思われる。
「日本書紀に描かれた古代人の過去の記憶が正しいとするならば、大和の歴史は吉備からやってきたと思われる物部氏の祖(ニギハヤヒ命)によって先住縄文文化の担い手(ナガスネヒコ)が帰順していたところへ、「最後に九州から神武がやってきて」大和は再編成されたと判断できるのだが、考古学的に纏向遺跡はそれに合致するように「最後に九州の土器と古墳形態と祭祀形態がやってきていると判断でき、女王国連合の最先端技術(鉄器)が大和ではなくこの時期まで北部九州に集中していたことを忘れてはならない。無血でひとつの文明を牛耳り、さりげない交代劇を演じることができたのはやはり「相手があきらめてしまうほどの」圧倒的な武力と最新情報、最新文明を持っていたものであるのは当然である。
また九州が「招聘される形」で纏向祭祀の頂点に出現したと考古学は言っている、その部分を近畿の学者や報道がクローズアップしていないことは大変恣意的でフェアでない部分であり、まだまだ旧態然の大和の偏重的視野が残存しているとまた感じたことである。
九州学派の方も、そろそろ九州説に執着するのはやめて、倭五王が九州から来て纏向を再編成した英雄だという表現に変わっていくべきだろう。
少なくとも纏向だけが日本書紀記述と考古学発掘の矛盾がない唯一の場所だと考えていいと思う。」
http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/folder/1605203.html

邪馬台国が支持し臣下の礼を得た三国時代の「魏」(220年ー280年)は280年に亡び、中国は西晋に統一された。
もしも邪馬台国が、この時期まで畿内と並立存続していても、魏が滅んだ後は急速に勢力が衰退していったのではないかと思われる。また、このように隣国の中国が統一国家に変化したことも、日本の統一運動に拍車をかけた可能性がある。それはひとつの流行のようなものでもあり、また、西晋が攻めてくる可能性への対処手段でもあっただろう。かくして3世紀後半から4世紀はじめに発展した巻向遺跡は、時代の要請に基づいたものであり、考古学者のいうような日本の首長連合の首都であったとする可能性は非常に大きくなる。

植木

Unknown さんのコメント...

崇神(すじん)天皇である「みまき・いり・ひこ」さんの「みまき」だけれど、「まきむく」遺跡の「まき」に、丁寧か尊敬の接頭語「み(御)」がついただけじゃないかな、と素人的発想をしてみました。つまり単純にいうと「まき」に「入った」天皇様であったわけです。

崇神天皇の次の代の垂仁(すいにん)天皇は、纏向珠城(まきむく・たまき)宮にいたわけだから、先の天皇の「まき(真城)」に「向かいあった」ところに宮殿を構えたのかもしれない。次の景行(けいこう)天皇も纏向日代(まきむく・ひしろ)宮にいたので、同様のことがいえる。初代の神武(じんむ)天皇が、日向(ひむか、ひゆうが)の地に居たことを思い起こすと「向」の意味が気になるわけです。

昨日は、「世界・不思議発見」で「纏向遺跡」の特集をしていたので、同テレビ番組を見ました。

ここで、記憶に残っているのは、纏向の発掘した宮殿が取り壊されて、柱が抜かれ移設された時期と、近くにある「箸墓古墳」が築造され始めた年代が同じだという説明でした。これには、どのような年代測定の根拠があるのか知りませんが、もしそれが本当だとすると、この宮殿にいた「纏向の支配者」が死んで「箸墓」に葬られたことになります。
箸墓の構築年代は、瓶の放射性炭素の測定結果(別記)から、卑弥呼の死亡年(247ー8年)と同じ頃(240年ー260年)だと考えられるようになりました。新たな宮殿は、今回発掘された宮殿から600mほど東側に作られたといいます。こうなると、箸墓の主は、その年代を多少移動させて、崇神天皇か垂仁天皇である可能性を考えたいところです。(通常は、「やまとととひももそ姫」がそれだとされている。)

もうひとつは、崇神天皇の御名「みまきいりひこ・いにえ・のみこと(天皇)」の「いにえ(五十瓊殖)」ですが、伊勢の近くに五十鈴(いすず)川があり、この「五十」がついています。次の垂仁天皇が「伊勢」に神社を構えさせたことを考えると、もしかしたら、崇神天皇はこの伊勢近くのご出身かもしれないなどと、素人なりに想像をめぐらせました。そうすると、纏向遺跡には東海地方からの土器が圧倒的に多いことが説明できるのです。つまりは纏向初代の天皇が東海地方出身者だったからではないかという推測です。
この考え方への傍証はもうひとつあり、新たに発見された宮殿が、東の方向を向いて建てられていることです。つまり宮殿を拝むと東の方角を拝むことになるのです。奈良から東というと、東海地方になるわけです。(以上は素人の推量の域をでません。)

●第十一代・垂仁天皇 纏向珠城(まきむく・たまき)宮(在位:BC29年ー西暦70年)
      父親は崇神天皇。
●第十二代・景行天皇 纏向日代(まきむく・ひしろ)宮(在位:西暦71年ー130年)
      父親は垂仁天皇。墳墓は奈良県天理市渋谷町にある。
●第十三代・成務天皇 志賀高穴穂(しがのたかあなほ)宮(在位:131年ー190年)
      父親は景行天皇。墳墓は奈良市山陵町にある。
●第十四代・仲哀天皇 角鹿笥飯(つのがのけい)宮・穴門豊浦(あなとのとよら)宮(在位:191年ー200年)
      父親は日本建命(やまとたけるのみこと)墳墓は大阪府藤井寺市藤井寺四丁目にある。
●第十五代・応神天皇 軽島豊明(かるしまのとよあけ)宮(在位:270年ー310年)
      父親は仲哀天皇、墳墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目にある。
●第十六代・仁徳天皇 難波高津(なにわのたかつ)宮(在位:313年ー399年)
      父親は応神天皇。墳墓は大阪府堺市大仙町にある。

歴史書に書かれている墳墓と、各天皇の実際の墳墓が本当に一致しているのかどうかは確証できませんが、歴史書を信じると、第十四代・仲哀天皇から大阪に移動したことになります。そして、応神、仁徳という巨大な前方後円墳を含む百舌古墳群を建造した天皇たちの時代へ移ってゆくのです。

植木

Unknown さんのコメント...

●箸墓古墳の年代が、卑弥呼の没年(247ー8年)と同じ時期であったという話。
【瓶の不思議:こんな汚い瓶を大王の神聖な墓に設置するのか? 偶然の一致も考えられる】

巻向遺跡の南にある箸墓は、その堀などから出土した瓶(かめ:下記に写真あり)に付着していた放射性炭素の年代測定により、240年ー260年の古さを持つという測定結果を得ている。この測定を行ったのは千葉県佐倉の国立歴史博物館の館員であった。
★卑弥呼の年代と箸墓から出土した瓶の放射性炭素からの年代
http://image.blog.livedoor.jp/hanauba/imgs/e/8/e8136dd7.jpg
★箸墓から出土の放射性同位元素を測定した瓶
http://www.asahi.com/culture/gallery_e/view_photo.html?culture-pg/0529/OSK200905290032.jpg
この放射性炭素測定に用いられた瓶(かめ)は、写真を見ると底が炭で真っ黒に汚れていて、いったい何に使用したものだろう。
王様のお墓に、このようなすすで汚れた汚い瓶などを置くものだろうかという疑問が起きる。もちろんこの墳墓で行う祭礼などで、何かを煮炊きした瓶だという推測は成り立つ。そうだとすると、この瓶は、この年代の間(240年ー260年)でしか祭礼が行われなかったことになる。そして使用後、墳墓のお堀に捨てられたのである。まさか、墳墓の構築従事者たちの食事を煮炊きしたものでもあるまい。

そのような瓶は、不浄なものと思われるので、大王などの神聖な墳墓のお堀に捨てることはしないと普通は考えられる。
つまりは別の場所に持ってゆき、廃棄するものではないのだろうか。また、祭礼に用いられた瓶だとすると、新たな王宮に入った支配者が箸墓で祭礼をしなかったとは考えられない。すると、箸墓が構築された後も、箸墓で祭礼を行ったはずである。しかしそうした壷とか瓶が発見されないのはなぜだろう。少なくとも同じ地域に王宮を構える同じ王朝の血筋であれば、前の王を顧みないのは不思議である。

この点が疑問として残るように思う。

この瓶のもうひとつの可能性は、情報操作かおまじないである。つまり、他の墳墓の構築材料をもってきて、お堀などに捨てたり墳墓に設置することである。結果として箸墓の製造年代が、実際とは異なる年代に設定されてしまった。まさか、当時の人は、後の世に放射性炭素による年代測定法ができることまでは予測しなかっただろう。
こうした他の場所とか古墳から、壷や瓶などを移設するのは、何かのおまじないとか、縁起を担いでのことであったかもしれない。つまり誰かの古墳にあったものを移設することで、その誰かのもつ魔力にあやかるとか、その政治的力を移設するといった可能性である。そうして、移設した古墳を礼拝し、その呪術力を利用しようとするのである。

卑弥呼の力をその古墳に移設しようと思った場合に、卑弥呼の墳墓から埴輪とか瓶を持ってきて、そこに移設しただろう。これは卑弥呼の子孫達が行う可能性はある。現代でもお墓の移築は行われている。移住した子孫たちが、先祖の土地まで出向かないで新たに建築したお墓に詣でることで済むのである。この場合、墓石とか骨壷などを移設するが、古墳の場合には埴輪なども移設した可能性がある。

あるいは、卑弥呼の呪術力を他の王たちの力を封印するために使用した可能性もある。しかし、単に偶然に、放射性同位元素の測定結果が、卑弥呼の死去年と同じ時期であったという可能性もありえる。

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「2009年5月29日(金)16時50分配信 ゆかしメディア」
 国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究グループによると、卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の前方後円墳、箸墓古墳の築造時期が卑弥呼が死亡した時期と一致することがわかった。
 考古学では一般的な放射性炭素(C14)年代測定法で土器などから算出したもので、箸墓古墳の築造年代は240〜260年だった。これは「魏志倭人伝」に記載された卑弥呼の死亡年、247年頃と一致する。
 測定法の精度を疑問視する学者もいるが、この調査が邪馬台国論争に影響を与えることは必至とみられている。国立歴史民俗博物館の調査結果は、31日に開催される日本考古学協会総会で発表される。
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yucasee-20090529-895/1.htm

Po さんのコメント...

この遺跡で定説が変わりそうですね。
Woodさんの説も興味深いです。
まだまだ新しい発見がありそうです。

Unknown さんのコメント...

そうですね。いろいろな情報があるので、整理して考える必要がありますね。

Unknown さんのコメント...

●邪馬台国と大和朝廷とは全く別の国家だったという説があります。

ひとつの問題点として、古代に近畿地方を中心に栄えた銅鐸文化に関しては、突然の消滅と、歴史書にその起源や痕跡を残していないことから、この銅鐸文化圏は、どこかに征服され抹殺された文化圏であることが推察されます。
★参考記事
【古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しない。記紀に登場するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。】
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-6cdc.html

この主張から言えることは、九州の文化圏が東征を行い、近畿地方をも制服したと考えれば一応説明ができます。

しかし、邪馬台国も同様の状況にあると考える人達がいて、親魏倭王という称号をもらった「卑弥呼」の業績をもっと歴史書でも強調して記述するだろうという指摘は考慮すべきでしょう。

●箸墓からでた炭素年代測定をした瓶は、箸墓の完成時の祭典に用いられたか、もっと後の時点で設置された瓶ではないかと考えられる。

この考え方は、箸墓の起工式で用いられたものは、たぶん、巨大古墳の地下に埋められてでてこないだろうという推測からです。
箸墓は全長278m、高さ30mもあり、その土台の工事や堀の掘削、盛り土工事などで、起工式の時点の地面は痕跡も残らないでしょう。
箸墓の堀からでてきたこの瓶は、箸墓が完成した時か、その後の時代に設置されたものだろうとする推測は間違っていないと思われます。つまり、この瓶の示す年代は、箸墓の完成時より後の時代だということになります。

Unknown さんのコメント...

●放射性同位元素のからくり。
以下の疑問は、上記の放射線同位元素(炭素)からの年代測定が正確だった場合です。
1.発掘された瓶が他所から移設された場合。

この瓶が、卑弥呼が崩御した時(247年)に祭典で何かを煮ることに用いて後、記念にどこか(古墳など)に保存された物だとする。
こうして時代がくだり箸墓を「4世紀」に建造したものたちが、祖先の栄光を記念してその保存場所から瓶を持ち出して、箸墓の脇に記念として設置したとする。

さて、この場合、瓶に付着したスミから検出された炭素の放射性同位元素から、その炭の作成された年代(240年ー260年)が、古墳の建築(完成)の年であると検出されたとしても、その年と箸墓古墳の建築年代との間にはなんの関連もない。

2.すすの年代にまつわる課題。(素人の疑問です)

たとえば、瓶は「4世紀」に作成されたが、それを煮炊きした木が、古い神社や宮殿を壊してでた廃材だとする。
この場合、瓶の底に付く「スス」は廃材の木の年代になるのではないか。たとえばこの廃材が、240年ー260年に伐採された木であり、それで建築された神殿が4世紀になり取り壊され、そこで瓶で何かを煮るために燃やされたというケースに相当する。この場合、瓶の底に付くススの年代は、やはり240年ー260年を指すのではないか。このケースは神社などの社殿を構成していた「神聖な」材木であるがために、古墳の脇でも使用されやすい。

こうした疑問は色々とでてくると思います。

Unknown さんのコメント...

巻向遺跡は、日本を統一した大和朝廷の初期の遺跡として貴重です。また、その古さは放射性炭素を用いた年代測定からも言えることでしょう。

巻向遺跡と比較して、九州の「吉野ヶ里」遺跡はよく保存され、一般人に公開できる体制がとられているように見えます。一方、奈良の「巻向遺跡」は大和朝廷の関係が明確にあるので、埋め戻して終わりにせず、できたら吉野ヶ里遺跡のような整備された形で遺跡の保存をしてほしいものですね。

●吉野ヶ里遺跡の祈りの場所
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10

●吉野ヶ里遺跡
http://www.yoshinogari.jp/

Unknown さんのコメント...

巻向(まきむく)にある最大級の前方後円墳である「箸墓古墳」は、日本書紀によると崇神天皇の祖父にあたる孝元(こうげん)天皇の子女だった「倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひ・ももそ・ひめ)」の墓だという。(紀元前92年と同88年に活躍した記事がある。)

●第八代:孝元天皇。在位:紀元前214年ー同158年。和名:大日本根子彦国牽尊(おおやまと・ねこひこ・くにくるの・みこと)

●「箸墓古墳」は、墳長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで前方部は前面幅約130メートルで高さ約16メートル。周囲を二重のお堀(環濠)で囲われ、お堀には水がたたえられていたという調査結果がでている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3

邪馬台(または壱)」国の卑弥呼の墓だとする説は最近急速に力を増しているが、箸墓の堀から出土した甕の底部についていたススが、放射性炭素の年代測定により卑弥呼の活躍した年代を示すことからだろう。

さて、卑弥呼が西暦239年に魏の国に使者を送り、親魏倭王(しんぎわおう)の金印をもらったという記事が魏志倭人伝にある。
これに対して、その約180年前の西暦57年に、博多湾周辺(平野)に存在したと考えられる「倭の奴(な)国」が中国に使者を送り「漢倭奴国王(かんのわなこくのおう)」の金印をもらった事実がある。(この金印は博多湾に浮かぶ志賀島から出土している)

また、邪馬台国の女王卑弥呼は、晩年、南の狗奴(くぬ)国との争いで、魏の国に援軍を依頼している。そして中国からの使者が邪馬台国に到着した直後、卑弥呼は亡くなり、径百余歩の塚を作ったという。以後、倭国は乱れるが、ついに13歳の「台与(とよ)」を建てて、国中は収まったという。一方、古事記と日本書紀に書かれている当時の天皇の系図からは、女性が天皇になった記事は見当たらない。

これらのことから考えると、この奴国を含む周辺の国30国あまりを従えた邪馬台国も、北九州周辺にあったと考える方が妥当のような気がする。

当時、日本の玄関である北九州地方に対して、奈良を中心とする勢力が別にあってもよいと考えるものです。

植木

Unknown さんのコメント...

この奴国(西暦57年に中国へ朝献)から邪馬台国(239年に魏の国へ朝献)の間の西暦107年に、倭面土国の王・帥升(ししょう?)等が中国に使いを送ったことが『後漢書』や『通典』に書かれている。

この倭面土(わめと?)国が、「邪馬台国総論」では、面土を中国の古代の発音で「めた」と発音することで、佐賀県の三養基郡米多(めた)郷が所在地だったと推定している。

【『先代旧事本紀』の国造本紀に、「筑志米多国造 ( つくしのめたのくにのみやつこ )」という記載が出てくるが、おそらく、佐賀県三養基郡米多郷が所在地だったと思われ、このあたりは吉野ヶ里遺跡の近くでもあり、筑後平野一帯が支配地域だったのでは?と思われる。「面土」は上古音、中古音から想像して「メタ」と発音するのが正しいと思われる。よって、「筑志(つくし)米多(めた)国」こそ、「面土国」の後継国なのでは?と思われる。 】
というように、
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html

この倭面土王の記事の後、倭国大乱の事件がおきる。

後漢書「東夷伝」に「後漢の桓帝・霊帝時代(147〜189)に倭国は大いに乱れ、互いに戦い何年もの間、主となる王を立てられないほどだった。」とあり、この争いは卑弥呼を共立する事により収まったようである。

問題は、この争いがどのくらいの範囲であるかでしょう。そして卑弥呼がどこ(場所)で立てられたのかが焦点となります。

Unknown さんのコメント...

この巻向遺跡に関して、興味深い事を見つけました。

●巻向(まきむく)は古代には穴師(あなし)とも呼ばれていた。
●新たに発見された巻向遺跡の宮殿跡は、正確に東西を向いていて、この真東の方角に、穴師坐(あなし・ます)兵主(ひょうず)神社があります。
●「夏至」の日の出の方向
箸墓古墳の円墳の中心と、方墳部分の中心線(主軸)を延長すると、穴師坐兵主神社と穴師山が同じライン上にくる。これがこの地域の「夏至」のラインで、夏至の太陽がこの方角(山)から昇る。夏至の日は箸墓から観測決定できた。
●「冬至」の日の出の方向
現・崇神天皇陵の主軸を延長すると穴師山があり、冬至の太陽はこの山頂から昇る。つまり冬至は崇神天皇陵から観測できた。

「夏至」と「冬至」を知ることは、暦を作る上で重要な作業である。そして、暦は稲作などの一年間の作業をする各時期を知るために重要である。そこからの結論として、この地域は、古代の日本の中心的役割を果たしていたが、それは稲作による文化であり、また太陽信仰に基づくものであったかもしれないと思われる。
★穴師坐兵主神社
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/anasi.htm

●新たな放射性炭素による年代測定法により、弥生時代の開始が紀元前10世紀後半に訂正された。また、奈良での米作のはじまりが紀元前550年頃に推定されている。
★炭素年代測定による高精度編年体系の構築
http://www.rekihaku.ac.jp/research/subsidy/news_letter11.pdf

Unknown さんのコメント...

●唐古鍵遺跡からの類推

奈良盆地で最大の弥生時代の遺跡は「唐古・鍵遺跡」で、径400mもある何重にも作られた環濠に守られた巨大集落(村)だった。この遺跡は紀元前の弥生時代から続いて、三世紀頃に巻向遺跡が栄え始めた頃に衰退したという。この遺跡は巻向遺跡から直線距離で4.5kmくらいのところにあります。

「唐古鍵遺跡では、青銅器の鋳造跡が見付かっていて、その中から銅鐸の鋳型が見付かっている。だから、銅鐸文化を形成した文化圏の一翼を荷なっていたに違いない。そして、銅鐸文化の消滅とともに衰退したと考えられる。

同遺跡から出土した土器に描かれた「楼閣」から推察すると、中国の南部の文化の影響を受けていたと考えられる。そうなると、北方の「魏」の国と国交を結んでいた邪馬台国とは異なり、南部の「呉」の国と結ぶ勢力であった可能性が高い。
それで、両者はあるとき戦いを交え、魏に支援された邪馬台国側が勝ち、唐古鍵遺跡の銅鐸文化圏は征服されて消滅したのではないか。

巻向遺跡に発生した前方後円墳が大和朝廷の象徴であることから、奈良盆地を征服した勢力が巻向遺跡側に来たのではなかったかという想像は間違いでしょうか。

●唐古鍵遺跡
http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/
http://j-art.podzone.net/~chikaserver/chikablog/article.php?id=93
http://www.geocities.jp/sun3annex/karatokagi1.html
http://community.travel.rakuten.co.jp/community/spot.do?spotCode=15514

Unknown さんのコメント...

以上をまとめると、個人的な印象として、

【1】.弥生時代の農耕文化がおとずれた。

【2】.「唐古・鍵遺跡」や葛城氏の居所であった地域の青銅器文化がそこにやってきて「銅鐸文化」が栄えた。

【3】.鉄器文化の民がやってきて国内で鉄の生産をはじめた。鉄器文化の民は三輪山などから産出する砂鉄を用いて鉄器をつくり、大国主の命にまつわる神をそこに祭った。この鉄器文化が来たときに、在来の「銅鐸文化」が亡び「巻向」が栄えた。
穴師(巻向)山に祭られる「穴師坐兵主神社」は、その「兵主」という名前から、武器や戦争の神だと容易に想像できる。三輪山周辺からとれる「鉄」により「武器」が生産され、それにより奈良諸国を従えることができたのだ。
http://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&ct=res&cd=8&ved=0CCAQFjAH&url=http%3A%2F%2F203.181.58.23%3A36890%2Fshares%2Fwww%2Fdock%2Firon%2F4iron08.pdf&ei=drYVS5jIBJWekQX8pvyBBw&usg=AFQjCNG3CQQzoWOtAxvFveXSqJcxpcVM_A&sig2=-7Kc54fdY4I-noZJ53oKFg

【4】.後に大和朝廷の祖となる民がやってきて奈良に王朝を築いた。

(この部分は、大国主の命が国ゆずりをした古事がある事から付け加えたもの。実際には様々な勢力の興亡があったのかもしれない。)

というような筋書きとなる。

奈良盆地周辺の山々には、上記の文化に必要な銅鉱山とか鉄を産出する所がいろいろとある。(下記参照)そのために、穴師(鉱山で穴を堀り鉱石を採掘する人?)とか金屋(精錬冶金をする所?)という地名が残っている。

「巻向遺跡」や「唐古鍵遺跡」が栄えたのは、大和川に隣接した水路があり、この川を通じて大阪湾から瀬戸内海へ抜ける水運の便があったからだろう。巻向の箸墓は「大市」と呼ばれる地域にあり、この大市では陸路や水路から運ばれた物品の交易をするための大きな市場が開かれていたらしい。

【銅】
斑銅鉱(奈良県御所市竜神鉱山
http://www.ne.jp/asahi/nar/nos/diary/asamati/asamati.htm
【スズ】
錫石(滋賀県大津市新免)
【アンチモン】
ベルチェ鉱(奈良県吉野町八王子鉱山)
【水銀】
輝安鉱(奈良県大宇陀町本郷)
辰砂(奈良県桜井市多武峰鉱山
【鉄】
黄鉄鉱(奈良県大宇陀町本郷)
黄鉄鉱(奈良県桜井市針道)
磁鉄鉱(奈良県行者還岳)
http://mineralhunters.hp.infoseek.co.jp/harimichi.html

Unknown さんのコメント...

●前方後円墳について。
前方後円墳は、大和朝廷の日本支配に伴い発生した墳墓と考えられています。

もともとは、森のような外見ではなく、表土が見え埴輪や石で拭かれたものでした。(下記リンク参照)
私説ですが、そのはじめは巻向の箸墓のように太陽観測から夏至の日を知るために用いられたものではないでしょうか。
前方後円墳の初期の形態である「巻向形古墳」は方墳部が小さいのですが、それは、観測のための土台として当初は使用されたためかもしれません。

つまり円墳部の上に柱などを立て、それを後円部から見て、太陽の昇る方向を観測したのです。箸墓では、ちょうど夏至の日の太陽が昇る方角を後円部の特定の位置にしるしをつけて記録しておけば、夏至の日かどうかがわかったのです。また、そうした観測を何年か続けると、その夏至の日まであと何日だということを知ることができたかもしれません。

しかし、暦を正確に作るために、次第に観測精度が高く必要とされるようになったために、前方後円墳もある程度の大きさが必要となった、というわけです。そして、後に使用目的が変わったために形骸化して、形も装飾的なものへと変化してきます。

下記にあるリンクから前方後円墳の写真をご覧ください。
古代に作られたとき、どのような姿であったのかを知ることができます。

●八幡塚古墳(群馬県群馬郡群馬町保渡田)長さ190m、幅148m。
http://homepage1.nifty.com/k-kitagawa/shiseki/hachiman.html

●五色塚古墳(兵庫県神戸市垂水区)
 全長194m。高さ(前方部で11.5m。後円部で18m。)
http://www.asukanet.gr.jp/cha-san/kofun-goshiki.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%89%B2%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/8776/gosiki.html

●日本最大の前方後円古墳(仁徳天皇稜)大仙古墳
大阪府堺市堺区大仙町
(墳長486m、前方部は幅305m高さ約33m。後円部は直径245m高さ約35m)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3
http://takada-osaka.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-04d1.html

Unknown さんのコメント...

何はともあれ、奈良の文化財の発掘は「亀石」が西を向く前に行いましょう。
泥の海になってからだと発掘も困難となります(^^;

●奈良・明日香村の「亀石」
【西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%9F%B3
http://www.kasugano.com/kankou/asuka/index2.html

Unknown さんのコメント...

来年の2010年は、奈良の「平城京遷都1300年記念」の年です。
(京都市の平安京ではない。)
平城京跡や県内各地では様々なイベントが開催されるそうです。
よかったら奈良へ旅してみませんか?

●平城京遷都1300年祭
http://www.1300.jp/

Unknown さんのコメント...

★昨年の2012年は、日本最古の歴史書である「古事記」が編纂されてから1300年目に当たる記念の年でした。