2013年1月5日土曜日

★謹賀新年 今年もよろしくお願い致します。

謹賀新年
このブログを読まれている方々、本年もどうぞよろしくお願い致します。
さて、最近は社会が安定してきたようにも思われます。やはり、新たな体制への社会の構図が固まり、その意味で、社会の変化が少なくなってきた事がその理由の一つでしょうか。

前の記事では、給料の分配について書きました。
つまり、無い袖は振れない、という諺もありますが、日本国内の生産やサービスにより生じる『お金』を、どう国民に分配するのかを考えてみました。
その記事には、企業内での給与の配分による社員達へのしわ寄せの分配、という方法が書かれています。しかし、社会全体で経済体制を変えずに行なえる方法もありそうです。そちらは、どなたか優秀な頭脳をお持ちの方にお任せする次第です。

以下は、それとは違うのですが、ある空想的なお話に関する話題を取り上げてみました。

イエスキリストは、五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆を満腹にさせたと聖書にはあります。
いわゆる『人はパンのみで生きるにあらず』という言葉に象徴されるように、『パン=神の言葉=教え』という解釈も成り立つのです。
もしかしたら、あまり運動をしなければ、人体は少しの食べ物でもうまく機能してくれるものかもしれません。しかし、それは単なる夢物語だ、という人もいるでしょう。

◎ユハネによる福音書第6章1節より
『その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。』


以上の記述と似た記述が四つの福音書全てに書かれています。だから、相当に重要で、弟子たちの印象にも強く残った出来事だと考えられます。ここで、この内容を少し考察することにします。

まず、イエスは弟子たちを試して質問をするわけです。

『「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。』
これに対して、
『ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」』

これは、当時の物価をある程度知ることができる情報でもあります。つまり、五千人にパンを少しづつ与えるのに、200デナリのお金が必要と計算したのです。
これを元に計算すると、例えば五千人に400円/人のパンを支給すると、5,000✖400=2,000,000から、二百万円かかるのです。(1デナリ=1万円と換算して良いのかどうかは知りません。1デナリは当時の傭兵の一日分の給料だと書籍に書いてありました)
今は百円マックがあるので、それを買えば安上がりに出来るかもしれません。しかし、マックをセットで買うと一人当たり640円にもなります。安いコンビニ弁当でも、300円から500円くらいはかかります。それに飲み物を付けると大変な金額となります。

このような事を、毎回、集まった群衆にできる訳がありません。

次に、そばにいた別の弟子のアンデレが面白いことを言います。
『弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」』

すると、イエスは、では見ていろ、と言わんばかりに大衆を草むらに座らせて、感謝を捧げた後、その五つのパンと二匹の魚を分けて弟子達に配らせます。つまりは、これで食事にしよう、という合図でもあったわけです。すると、五千人の大衆は皆、お腹が一杯になるまで食べて、余ったパンクずが12のカゴに一杯となったと書いてあります。

こうした現象を現代で起こすとすれば、集団催眠術でしょう。つまり、現代人がこのような現象を起こそうと考えると、集団に催眠術をかけて食事をしたという暗示をかけるとか、薬物とか特殊な香料を使い皆が満腹感を得るというような、何らかの方法を講じるしかないわけです。
また、物理的にみると、五つのパンと二匹の魚で、食べた残りが12のカゴに一杯となるのは無理でしょう。これが現実に起きたとすれば、まさに集団の幻覚か奇跡としか言いようがありません。

◎もう一つの解釈方法(個人的なものです) ところで、もう一つの解釈方法があります。そのヒントがアンデレの言葉にあるのです。

「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

この言葉から、当時の背景を考えてみると、そこにきていた少年が『お弁当』を持っていた事に注目したいと思います。

おそらく、彼をそこに行かせた母親が、遅くなってお腹が空いたらそのお弁当を食べなさいと、その少年に持たせたに違いないのです。
そのように、子供でさえお弁当を持参して来ているとすれば、他の大人たちはどうでしょうか。やはり、たまたま通りかかりに聞き入った人を除けば、そこにイエスのお話を聞きにきた多くの大人達もお弁当を持参していたに違いないのです。問題はそのお弁当の総量です。はたして五千人が食べて十分な量であるかどうかです。
イエスは十分な量であると見抜いたのでしょう。彼は厳かにその行為を行いました。彼はまた、隣人愛を説いていたので、群衆はその教えとイエスの行動に従い、自分の弁当を周囲の人たちに分けたのです。こうして、皆の弁当は細分されたが、そこにいる全員に行き渡ったのです。おそらく、その弁当を放出した少年にも、集まった大人達から『ほら、これを食べなよ』と差し入れがきたに違いないのです。
弟子たちは、環境美化のために食事の余りを集めてカゴにいれさせたのかもしれません。こうして、和気あいあいと食事の時間が過ぎて行った、という想像も許されると思います。

こうした『気遣い』(貧乏な講師たちに食事の心配をさせない)は日本人的な発想かもしれませんが、ユダヤ人達にも有ったのではないかと想像しています。
ここでの教訓として、大勢が集まれば、皆で食事をすることくらいは何とかなるものなのだ、ということでしょう。

植木淳一

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