2008年12月21日日曜日

一杯のお茶から生まれる幸せ(?)

●喫茶去 (きっさこ)というお話

中国禅の大巨匠で、趙州禅師という人がいました。

ある日、一人の僧が訪ねてきました。
趙州 「あんたはかつてここに来たことがおありかい」
僧  「あります」
趙州 「そうかい、まあ一服おあがり」 (お茶を勧める)
また、別の僧が訪ねてきた。
趙州 「あんたはかつてここに来たことがおありかい」
僧  「ありません」
趙州 「そうかい、まあ一服」 (お茶を勧める)
 この様子を見ていた院主が趙州に尋ねた。
「禅師はかつて来た者にも、来ない者にもお茶を勧めるが、それはなぜなのですか」
趙州は、それには答えず、
「おい院主さん」
院主、思わず、「はい」
趙州 「まあ一服」 (お茶を勧める)
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要するに趙州は、誰彼の区別なくお茶を一服すすめたというわけです。

この一服(喫茶去)のうちに禅の真髄があり、茶の真髄があるというのです。

外からやってきて、お茶をすすめられた人は、好意を受け、もてなしを受けたと感じるでしょう。
また、寒い戸外から、屋内へ入り、暖かなお茶の一杯を飲んだときに、どれだけ心も温まるかわかりません。
我々は、難しい理屈は抜きにして、やってきた人にいっぱいのお茶をすすめ、また、一杯のお茶を共に飲むことが、来客へのもてなしとなることを考えるべきでしょう。そして、一杯のお茶が、その場に、どれだけ和やかな雰囲気や安心感を生むかを感じてみることも大切だと思うのです。

人間世界に生じる「煩悩」(迷いや悩み、苦しみなど)は、人間関係を円滑にさらには親密にすることにより軽減されると考えられます。その観点から考えると、だれかれ差別なく(好意を示す)お茶を勧める行為をしたこの禅僧の振る舞いは、もっともな事といわざるを得ません。(これはひとつの考え方ですが)

「喫茶」というと、日本では「喫茶店」を思い浮かべる人も多いでしょう。欧風に言うと「カフェ」ですが、この起源は中世に街道沿いにあった「茶店」でした。この茶店は旅人にお茶や地域名物のお菓子をだして休憩をさせる場所であった。これが後に、お茶や料理をだす「茶屋」として発展して、明治時代に「喫茶店」が登場するのです。

一方、一人で居るとき、一杯のコーヒーやお茶を飲む時に、精神的なリラックスが訪れます。また、お茶やコーヒーを飲んでいる間に、思考や意識の方向や速度が変化するし、重要なインスピレーションが来ることもあります。結局、そうした時間がもてることが一つの贅沢であり、また重要なことにもなるわけです。


以上


★「喫茶」について
日本では家庭でも会社でも、たずねてきた人に、まずお茶を出す。お客をあたたかくむかえることは、一杯のお茶からはじまるといってよい。この一杯のお茶の効果を最大限に生かすように、さまざまな美的要素をそそぎこみ、日本のもてなしの文化として体系化したのが茶の湯だといいます。

8世紀に中国で喫茶の習慣が広がり、その影響が日本へも及んだ。奈良時代には茶が伝わっていたらしいが、確実な史料にはじめてあらわれるのは815年(弘仁6)、僧永忠が嵯峨天皇に茶を献じた「日本後紀」の記事。しかし、当時の茶は団茶(蒸した茶葉をかためたもの)風のもので日本人の嗜好(しこう)にあわず、また中国文化の影響がおとろえるのと同時に、喫茶の習慣はほとんど失われたらしい。
つぎにお茶が歴史に現れるのは、臨済宗(禅宗の一派)の開祖・栄西(えいさい)の時で、彼が宋から茶の実と飲茶法をもちかえり、寺社を中心に抹茶が飲まれるようになった。1211年、栄西は茶の薬効を説いた「喫茶養生記」2巻をあらわし、1214年に鎌倉幕府3代将軍源実朝に献じた。この書は日本最古の茶の本として知られ、以後、武家社会にも喫茶の習慣が広まっていった。

鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、時の将軍・源実朝(みなもとのさねとも)が二日酔いで苦しんでいる時に、栄西は一服の茶とともに、この「喫茶養生記」を献上したと書かれている。この書は上下二巻、漢文体で書かれ、上巻には五臓に対する茶の効用、茶の栽培や製法などを説き、下巻には五病(五つの病)に対する桑の効能について記している。

さらに13世紀後半には、京都の高尾や宇治の茶園をはじめ、西大寺などの各寺院に付属の茶園などが開かれ、喫茶習慣が普及し、薬用飲料としてばかりではなく嗜好飲料(しこういんりょう)として支持をえるにいたった。

このようにして飲茶の習慣が発達し、「裏千家」や「表千家」などという現代の家元制度にもなった「侘茶(わびちゃ)」が15-16世紀にかけて成立する。
四畳半茶室を考案した村田珠光(むらたじゅこう:1423-1502)は、侘茶(わびちゃ)の祖とされ、唐物と和物の調和をもとめ、「不足の美」を説き、精神的充足を追究した。その嗣子(しし)である村田宗珠、さらに十四屋宗悟(じゅうしやそうご)、宗陳らにひきつがれた侘茶は、堺の武野紹鴎(たけのじょうおう)によって大きな展開をとげた。紹鴎は貴族文化・禅宗文化を総合し、名物の世界を背景にしながら、一方で名物を否定し日常雑器を茶の湯にもちいるなど、わび(侘び)の理念と表現を具体的にしめした。

紹鴎(じょうおう)の弟子の千利休(せんのりきゅう:1522-91)はこうした侘茶の表現を、器物ばかりでなく、茶会の組み立て、懐石、点前作法、茶室露地など茶の湯の全体系につらぬき、さらにそれまでの見立てによって器物をえらんできたのに対し、楽茶碗(→ 楽焼)、竹花入などに新しい造形も指導し、ここに侘茶は大成された。

★わび(侘)
茶道でももちいられるが、俳諧、とくに蕉風俳諧でもちいられる美的理念語。もともとは「わぶ」という動詞の連用形が名詞化したものである。「わぶ」は、意のままにならないことをなげくこと、あるいはひどく落胆することをいう。それが、平安末期から鎌倉時代にかけて、思いのかなわない失意や落胆の境涯に、かえって深い情趣をみいだすようになり、「わび」「わぶ」も、そうした情趣を表現する言葉となってゆく。
謡曲の「松風」にある「ことさらこの須磨の浦に心あらん人は、わざとも侘(わ)びてこそ住むべけれ」という詞章には、「わぶ」ことをおもしろがる、そんな風狂精神が如実にあらわれている。
一方、茶道の世界では、武野紹鴎や千利休らによって、いわゆる「侘茶(わびちゃ)」が大成された。これも、物質的な不如意にあまんじて清貧に徹する精神を基調としており、それを理想の美とするところは「松風」の風狂の精神とかようところがある。

芭蕉の蕉風俳諧は、紹鴎、利休らの「侘茶」の精神を模範とすることで、俳諧に「わび」の理念をもちこんだ。1680年(延宝8)の深川隠棲(いんせい)あたりから、芭蕉の「わび」への傾斜が顕著にみえる。81年(天和元)の「わびてすめ」の句文には、「月をわび身をわび拙(つたな)きをわびて、わぶと答へむとすれど問ふ人もなし。なほわびわびて」という詞書に、「わびてすめ月侘斎(つきわびさい)が奈良茶うた」という発句がしるされている。「わび」の境涯をかみしめ、かつ興じている句文である。また84年(貞享元)の「野ざらし紀行」の旅の途中でなった「冬の日」所収の歌仙(連句)には、長旅のわが身を「わびつくしたるわび人」とよんでいる。ここにも同様の風狂精神がうかがわれる。芭蕉はこの「わび」の理念を、静寂な観照的態度で対象を把握する「さび」の理念や、哀憐の心をただよわせる「しほり」の理念へと展開させた。

●禅 について
禅は仏教の修行のひとつで、瞑想して心身を統一し、無我無心の境地に到達するための修行法である。サンスクリットのディヤーナ、バーリ語のジャーナの音訳で、昔は「禅那(ぜんな)」と記されたが、略して「禅」となった。この漢字の「禅」には、天使が神をまつるお祭りである「封禅」の意味があり、仏教の翻訳後としてのみならず、深い宗教性があったものと考えられている。
仏教修行者がおさめるべき基本的修行の三学:
1.戒(身を正しく修める)
2.定(心を静める)
3.慧(迷いを去り真実を知る)
のひとつの、定と合わせて「禅定」ともいう。

これは大乗仏教の説く実践徳目である六波羅蜜(「波羅蜜」はサンスクリット語のバーラミターの音訳で、涅槃に到達することをいう。)の第5にあたる。涅槃とは、生死に関して(生きている此岸に対して)彼岸(死)に到達することを言うが、現実的には「煩悩」(生における迷いや悩み、苦悩など)を克服して、平安な精神状態になることをさしている。悟りの境地ともいう。
「六波羅蜜」
1.布施(ふせ)信者が僧に衣服・金銀・食糧の財物を寄進する財施と、僧が法をほどこす法施がある。
    布施をする際には、一切の執着からはなれて、受け手に対し恩を売るものであってはならない
    点が重要である。
2.自戒(じかい)戒律をまもること。身業(しんごう:行動)口業(くごう:表現)意業(いごう:精神)
    の3業(→ 業)がともに悪をなさず戒・律にそった「善・正」を実践する生活をおこなうこと。
3.忍辱(にんにく)他人の悪口、批判、迫害などの苦難を耐え忍ぶこと。さらにそれらに対して怒った
    り、恨みをもたないこと。
4.精進(しょうじん)法をおさめ、他の5徳目をおさめることを、あきずにつねに誠心努力すること。
5.禅定(ぜんじょう)散漫になりがちな精神を静かに保ち安定した精神状態を得ること、またその状態
    をいう。
6.智慧(ちえ)真実最高の知恵をえることであり、仏教の説く現実世界の真実を見極める事である。
    この智慧波羅蜜は般若とよばれ、六波羅蜜の根本であり、他の波羅蜜を波羅蜜たらしめるもので
    あるとされる。

しかし「禅宗」では「禅」をそうした修行法のひとつとは見なしていない。むしろ「禅」自体が三学とか六波羅蜜を統合した全てであり、宗徒の修行すべき道であると考えているようである。

禅は古代インドにおいては一般的な宗教的修行の方法であった。当時インドでひろくおこなわれていたヨーガの実践過程のうちの精神浄化法の1段階であったものが、釈迦によって仏教の中にとりいれられて、主体的精神的傾向を強めたものである。原始仏教においては禅を精密に分析して、欲をもつ世界から欲をはなれる世界まで、4段階に区別した。その最高の段階を「非想非非想処」といい、これをおさめることができるものは最高の天「有頂天(うちょうてん)」に生まれることができるとされた。

日本では、禅というと坐禅を思い浮かべる人が多い。坐禅は「禅」を実施する方法で、静坐して精神の集中をはかり、迷いの心をすてて無念無想の境地に達することを言う。「座禅」とも書く。「禅宗」では、衣食住から労働にわたる日常生活の実践の中に悟りをひらく道があるとし、行住坐臥(ぎょうじゅうざが:戸外での労働、家での生活、すわること、横になること)にそれぞれ禅の修行があるとするが、なかでも坐禅がもっとも代表的な修行法として指導されている。

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