2009年3月26日木曜日

映画『オーストラリア』を見たよ。

この映画はテレビ宣伝を見て気になったのです。それで近くの映画館へ見に行きました。イングリッド・バーグマンの美貌は相変わらずでしたね。そして相手の男優も顔馴染みです。

映画には、オーストラリアの広大な大自然と不思議な能力を備えた原住民のアポジリニがでてきます。
オーストラリアの自然の光景は実に雄大でいいです。こうした広い場所に住めば、きっと細かなことにこだわらない広い心の人間になれるのではないかとさえ思えます。しかし、こうした広大な自然の中に家族だけで住むのは自由である反面、大変な部分もあるかもしれないと感じました。いずれにしても、オーストラリアのような広大な大自然の中に一度はでかけて、できれば住んでみたいものです。

ところで、映画の中でもっとも気になったのは、映画の時代が第二次世界大戦の時代設定になっていることでしょう。この映画の最後の部分では、日本軍が出てきて航空機がオーストラリアの町を爆撃したり、隣の島を陸軍部隊が侵略しています。

じつは、私の父親はこの隣の島の駐屯部隊にいたのです。つまり『チモール(Timor)島』の防衛作戦(戦争末期)に参加していた陸軍の砲兵でした。この部隊は幸いなことに、硫黄島のように全員玉砕の憂き目を見なかったのです。
父の部隊は後から補充された陸軍部隊で「スラバヤ(Surabaya)沖海戦」の時に危うく連合国側の戦闘艦群にやられそうになって逃げ回った輸送船団に搭乗していたのでした。(だから、はじめに上陸した部隊のように町の破壊とか攻撃には参加していなかったようです。)

日本は太平洋戦争に突入する前に、日露戦争に勝利した結果、ロシアから移譲された中国地域に軍事力を使用して「満州国」を建国しましたが、さらに中国全土への侵略を行う暴挙にでました。そのため西欧諸国から咎められて、石油や他の資源の輸入を禁止される包囲体制を取られてしまいました。石油がないと自動車や船、飛行機などは動かなくなり、産業全体も死んでしまいます。これは、日本のような石油がほとんど取れない国家にとっては死活問題です。しかし、大陸から撤退する代わりに包囲網を解くという交換条件での、外交によるこの問題解決が功を奏さなかったために、日本はインドネシア等にある南方の石油資源を、生き残りをかけて奪取しなければならないはめに陥ったようです。こうして、オーストラリア近くまでの海域諸島全部を日本の統治下に置くための侵攻作戦を実施し、太平洋戦争に突入したのでした。

こうして、命からがら到着したチモール島は四国くらいの大きさがあり、かなり広くてジャングルに覆われています。父親は砲兵だったので、その砲兵連隊は島の東側の精密な地図つくりを測量して行い、人がやっと通れる道までその地図に書き込んでいたと、彼の部隊の戦記本に書いてあります。
さらに父の部隊は、東部のラウテン(Lauten)飛行場の海岸線沿いに、厚さ2mもの分厚い鉄筋コンクリート製のトーチカ群(大砲を中に入れて直接攻撃されないようにする覆いのついた砲台)を作り、500kg爆弾でも破壊されないほどの強度に仕上げたのだそうです。(このとき、同島師団が所有していたコンクリートを間違って全部使ってしまい師団本部から怒られたという笑い話が残っています。また、このトーチカが何度かの爆撃で破壊できなかったので、連合国軍は用心して上陸してこなかったとも考えられます)。

当時は海軍が後退してしまったため、日本から補給船が来なくなり、食料を自分達で調達しなければならなくなったのです。いっぽう同島から移動した部隊の乗った輸送船は途中で潜水艦からの魚雷攻撃で沈められ、少数が仲間と連帯してやっと近くの島に泳ぎ付いて生き延びた話などがありました。
やがて同島にあった師団本部(Soe)が空襲でやられた後には、皆でジャングル中へ逃げ込み、ジャングルの中で生活することになったのでした。連合軍側はこのジャングル中へ攻撃をしてこなかったようです。
それにしても何千人かがジャングルの中で自活するには、大変な量の食料が毎日必要だったことでしょう。それで毎日、当番制で調達部隊を決めて密林のなかに分け入って、果物とかトカゲやワニ、ヘビ、サル、魚などを捕獲しては、コックをしていた調理経験者の兵隊達が調理して、何でも食べたそうです。こうした生活を終戦まで何ヵ月も続けたわけです。
こうした状況下で、連合軍側は食料がないために参ってしまうと考えて、ゲリラ狩りのようなことはしなかったのでしょうか。彼の部隊の戦記本にも全然そうした戦闘の話はでてきません。

父親の部隊がつくった戦記本には次のような記述があります。(戦後、生き残った人達が書いたもの。)
【部隊長室にある唯一の直流ラジオは時々豪州からの日本語放送を伝えた。「チモール島に自活せる捕虜一個師団あり。」膝下のこの島を無視してどんどん北上している○○の皮肉な放送にみんなうんざりした。夜になると、私たちは臭い手製の椰子酒(リピーと呼んでいた)を飲みながらわずかに絶望的な味気なさをまぎらわした。・・・月のよい晩など私はぶらりと付近の原住民部落へでかけた。住民たちは高い椰子の梢にかかった大きな月の下で手をつないで踊っていた。そして、私もその原始的な踊りの輪に加わった。そんな時、現地人も外来人も、明るく丸い南洋の月も完全に一体であった。】(同書:内村氏の手記より抜粋)

まあ、父親たちにとっては、とにかく生き延びられたことが幸運と言えるでしょう。

しかし、彼らの青春時代は、そうした生死を分かつ極限状態の中で過ごさざるを得なかったのでした。とにかく不幸な戦争は起こさないことが肝要です。

今年、父親がなくなってから十年目。映画を見てかの地に思いを馳せているのでした。

植木淳一 2009年春

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