2010年2月22日月曜日

●キリスト教の述べる死と生まれ変わり

なぜか今朝は、寝床のなかでこうした記事を書きたくなり、起きがけから書籍をだして文章作りに没頭してしまいました。
それというのも、誰かの話しかけから目が覚めたからです。睡眠から次第に覚醒にむかう意識のなかで、その話し手からの声が明瞭となり、あることに関して書かなければいけないという印象が強くなってきたからです。しかしその辺りの推移に関しては良く覚えていません。よかったら、お付き合いで読んでください。

●死後の「復活」について

仏教徒には「転生」という言葉が一般的ですが、これは人間が死後、再び生を受けることを意味しています。つまりは肉体をもち、出生という経路から成長して成人し、人間社会で人間として活動するのです。

これに対してキリスト教では、死後ある時点でキリストにより死者が生き返ることを意味している、と解釈されていたようです。しかし、人間の死後は天国で霊体として生きることを述べている教会もあり、この辺は解釈が分かれるところでしょう。(この文章は、実はキリスト教でも仏教っと似たような転生論を述べているのでは無いかという仮説を提示しました。)

キリスト教の聖書には、この事に関して詳細に述べている部分があります。

死後の「復活」について

仏教徒には「転生」という言葉が一般的ですが、これは人間が死後、再び生を受けることを意味しています。つまりは肉体をもち、出生という経路から成長して成人し人間社会で人間として活動するのです。

これに対してキリスト教では、死後のある時点でキリストにより死者が生き返ることを意味している、と解釈されていたようです。しかし、人間の死後は天国で霊体として生きることを述べている教会もあり、この辺は解釈が分かれるところでしょう。

この事に関して、さらに詳細に考察しましょう。

「コリント人への第一の手紙」(6章、13章、14章)には、「神秘」として、このことが書かれているように思われます。

それは、いずれ死を迎える「肉体」と永遠に生きる「霊体」に関した事柄です。「永遠を生きる人間」はこの両者の結合したものであり、死がそれを分離させるが、瞬時に「霊体」はまた、新たな肉体を得ることが「死者の復活」として述べられているように思われます。
「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」(コリント第一6章14)「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」(コリント第一6章17)

上記の記述から、この復活には「主」なる存在と「一体」となる必要が理解できます。

さらには、
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント第一6章19―20)

というように、この「主」なる存在は、神からいただいた聖霊として記述され、肉体はそれが宿る「神殿」とされています。ここでは、肉体と聖霊(主)、そして「自分」の三者が人間には存在しているように考えられます。
また、自分自身で神の栄光を表わすことが求められていますが、その中でもとくに「愛」を持つことが勧められています。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント第一13章13)

また「死後の復活」に関しては「コリントへの第一の手紙」15章に詳細に書かれています。そして、これが「福音」と述べられます。

一般的知識によると、人は性交により子供を女性の体の中に宿し、そして10ヶ月と10日の後に胎児が出生することで一人の人間をこの世に出します。このことから類推すると、まず最初に胎児としての肉体があり、それに死者の「霊体」が宿ることで、新たな人間がそこにできて出生してくると解釈するのです。
聖書には、
「(42)死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、(43)蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(44)つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(45)「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。(46)最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。(47)最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。(48)土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。(49)わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
(50)兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(コリント第一15章42−50)
と書かれています。

ここでは、同じ事を様々な別の比喩をもちいて表現しています。つまり「蒔かれるときには朽ちるもの」「卑しいもの」「弱いもの」「自然の命」「地に属するもの」というのは、卑近な例で申し訳ないですが精子を意味していて、「朽ちないもの」「輝かしいもの」「強いもの」「霊の体」「天に属するもの」とは、「復活した霊体」を意味しているように解釈されます。これと同様の比喩として「最初のアダム」(肉体)と「最後のアダム」(霊体:またキリスト{の分身}を意味する)が出てきます。
このように人体を肉体(死ぬべきもの)と霊体(永遠に行きる可能性をもつもの)とに構成する理由は、おそらく「創世記」に述べられている神の命令、
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記1章27−28)を実現させるためではないかと思われます。
すなわち、霊的な部分がキリストの分身としての一体性をもっているために、個々人の体はそれぞれ分離独立していても、地上全体の支配や管理に対して、一貫性をもつ人類の活動が可能となるわけです。

「転生」(死後の復活)は一瞬にして行われる

この理解から次の事がより鮮明に解釈できるように思われます。

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(コリント第一15章51−53)

ここで「最後のラッパが鳴る」というのは「死」の瞬間を意味しています。また、この事柄は「神秘」として述べられています。さらに、前述したように「朽ちるもの」「死ぬべきもの」とは肉体であり、「朽ちないもの」「死なないもの」とは「霊体」です。

そして、死後は「眠りにつく」わけではないと述べられています。それどころか、一瞬にして「異なる状態に変えられます」というのです。それは、別の肉体を今の霊体がもつ、ということになります。つまり今の肉体は「死んだ」のですからもう使えません。そのために、後から出てくる「肉体」は別の肉体であるはずです。それは、どこかの妊婦の「胎児」(自然の命の体:前述)であろうと想像されます。

つまりは、妊婦の胎内にできた胎児が自然の体(肉体)であり、これに誰かの霊体が(飛んできて?)宿り人間となるのです。そして出産してこの世に出てくるという考え方です。(イアン・スチーブンソン氏の研究書「前世を記憶する子供達」等をご参考ください。)

ここで、人の顔かたちは両親のもつ遺伝により決まる(白人か黄色人種か等)ので、新たな肉体の形は以前とは異なることが明確です。だから「異なる状態に変えられる」ことは明白です。しかし、同じ親から生まれた兄弟でも、双子でもない限り全く瓜二つそっくりだという事はありません。だから前世(前の人生)からの影響が容姿にもあると考えられます。このように死後、霊体が新たな肉体に宿り、これで「死」が克服されることになります。

ここで、ヨハネの福音書に書かれている「ニコデモ」の問いかけが思い出されます。
彼は「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」というイエスの御言葉に対して「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネによる福音書3章3-4)とイエスに問いかけます。

この言葉から、死後の復活では「母親の胎内」が重要な役割を果たしていることが知られていた、ことが想像されます。しかしニコデモ氏はそれを信じていなかったので、そのことを質問したのです。

これはつまり、ニコデモ氏には「霊体」の移転が理解できていなかったのではないでしょうか。イエスはこれに対して、風の例えを用いて「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3章8)と謎めいた答えをします。

上記の仮説から考えられることは、新たな胎児の「霊体」は、どこから来たのか分からないということでしょう。補足すると古代ギリシャ語では「風」と「霊」という言葉が同じ意味を持っているのだそうです。
さらには、後続するイエスの言葉に「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。」(ヨハネによる福音書3章12)には「天上のこと」という言葉が用いられているので、「霊的な新生」という意味も含めて天上にある「神の国」を意味していることが考えられます。

「第二の死」

『あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。」』(ヨハネの黙示録2章10−11)

「新約聖書略解」(日本基督教団:P773)には「第一の死がすべての人が経験することであるのに対して、第二の死は神にそむく者、命の書に名が記されていない者に与えられる。第二の死によって体も魂も地獄で滅ぼされるのである。」とあります。

これに対して「第一の復活」という言葉があり、これは「この者達は、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。これが第一の復活である。」(黙示録20章4−6)と書かれています。

さらに「第二の死」とは「死者達は、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海はその中にいた死者を外に出した。死と陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」とあります。(黙示録20章11−15:他に21章8にも記述あり)

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10章28)ともあります。

この地獄(ゲヘナ)とは何でしょうか。エルサレムの神殿の外には公共のごみ焼却場があり、そこでは人々がゴミを投げ入れて燃やしていたのですが、火の絶えることがなかったそうです。彼はこの焼却場を例えとして用いたのではないかと想像するのです。

結局、霊体でさえも滅びて消え去ることがある意味ではないかと、私は解釈しているのです。もしこの考え方が正しいのなら、自分の内にいる主と十分に一体化して、そのような事のないように注意するべきでしょう。

キリスト教の聖書には「死とそれを克服する道」が書かれていますが、これは聖書のひとつの重要な主題でもあると考えられます。

植木淳一

1 件のコメント:

植木淳一 さんのコメント...

◉わたしたちは皆、眠りにつくわけではない、という意味は?

「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。」(コリント第一15章51−)

この中の「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。」という個所が重要だと思います。

この言葉の意味をよく考えてみると、死後に「眠りにつくわけではない」というなら、どうなるのでしょうか。
ヨハネによる福音書では、イエスが隣で磔になっている罪人に、「あなたは今日、私と共にパラダイスにいる」(ルカによる福音書23章42ー43)と述べています。つまり死の当日に、いったいどこに居るというのでしょうか。

他の部分を別の解釈に取れば、このつながりが本筋のように思われます。つまり死後は、すぐに別の世界へと生まれ変わる、という考え方です。
そして、問題とされるのは、イエスが死後三日目に復活すると述べられたことでしょう。これはどのように解釈するべきでしょうか。ルカによる福音書の引用部分と矛盾する事になりはしないでしょうか。

イエスの磔刑後の三日目の朝は、弟子たちがお墓に行きましたが、イエスの遺体を安置したお墓の扉が開けられていて、遺体がなくなっていました。そして、天使(らしき存在)がイエスの復活を告げます。
ここまでだと、イエスの復活に関して問題を生じていません。

しかし、この後、イエスが弟子たちの前に姿を表して話をします。そして最後には天に登って行って雲の中の姿が隠れるという経過を辿ります。

これに関して、事実だと思いたい反面、矛盾を抱えるので、イエスの幻と弟子たちとの霊的な交流があった、というような解釈をしたいです。なぜなら弟子たちに伝承された「コリント信徒への手紙を1」に書かれている「神秘」と矛盾する場合には、「永遠の生命」に対する説明が非現実的なアイデアにしかならないと思われるのです。つまりはうまく説明できなくなるのです。

もう一つの「三日目」の解釈方法があります。
それは、イエスが亡くなってから三日目にイエスが再臨する(復活)という解釈です。つまり、紀元前61年頃にユダヤのハスモン王家が滅びローマの属国となりました。それから「千年間」を第一日目と考えると、イエスが活動された期間がこのなかに含まれます。そして西暦939年から1939年までが「二日目」の「千年間」です。さらに、1939年から2939年までが「三日目」となります。つまり今は三日目に当たるのです。
実はイエスは、この三日目の期間に再臨をするよ、と述べたかったのではないか、という事です。そして、この解釈方法が正しいのか否かは、たぶん2040年に分かるだろうということです。

上記の記述は誠に恐れ多いことですが、あえて書かせていただきました。ご意見などお待ちしています。

植木