2010年3月11日木曜日

○「復活」についての捕捉説明

最近、何となく身の回りが騒がしく落ち着かないので、もしかしたら、この記事の本文に関してのことではないかと思い、捕捉説明を書くことにしました。なんでもなければよいのですが・・・

●「復活」への捕捉説明
 元の文章(http://spacepeople-ga.blogspot.com/2010/02/blog-post_22.html
この「復活」に関する説明で違和感を感じるのは、イエス・キリストの復活とラザロの復活の話でしょう。

ラザロに関しては、次のように説明されています。
ラザロが病で死の床にあることを、その姉妹であるマリアとマルタがイエスに知らせたのです。すると、

『イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」』(ヨハネによる福音書11章4)とお答えになりました。この後、ラザロが死んで墓に葬られ、四日たってからイエスは出かけて行き、ラザロを墓からよみがえらせます。

このような事態になったのは、ラザロが死後また復活することをイエスが知っていて「神の子がそれによって栄光を受ける」ためと説明しています。つまりは、神か天使達が計画して、イエスもそれに参画して実行されたのではないかと考えられるのです。

同様のことがイエスの死と復活に関しても言えます。

イエスは、過ぎ越しの祭りの夜にユダの裏切りにより捕らえられ、翌日、磔刑により死んで墓に葬られます。そして三日目によみがえり弟子達の間に現れたと記されています。しかし、それより以前に、イエスは弟子達にそのことを話していたのです。

『このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。』(マタイによる福音書16章21)

このイエスの死後の復活に関して、

『婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。』(ルカによる福音書24章1〜9)

と記されています。

この二つの出来事には、事前に死後の復活が予言されていたこと、そして、その予言の通りに復活したことが共通しています。預言とその成就です。つまり、この二つはあらかじめ計画されていた事件のように考えられるのです。
現代医学の見地から見ると、死人が生き返ることはまずありません。それは医学の進歩により「人の死」に関する知識が発展し、人の死が正確に把握され理解されるようになったということもあるでしょう。しかし、古代においては医者も少なく、またその知識や技術も未発達であったために、人が完全に死んでしまわないうちに(仮死状態のまま)墓に葬られたこともあった可能性があります。
とにかく、このお二人は神の力とか聖霊の力により生き返ったのです。

さて、このような力を使徒達も受けて、多くの人々の病を癒しながら福音を流布していたのです。

『ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。』(使徒言行録 9章36〜42)
しかし、使徒のひとりのステファノは、群集に襲われて殉教者となったのです。
「使徒言行録」7章51〜60によると、
『かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。』

また、他にも殉教者となった使徒達がいました。

『そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。』使徒言行録12章1〜3)

こうしてみると、使徒達は死人を蘇らせることはできるが、よみがえらせたい人達皆が生き返ったわけではない、ということがわかります。ステファノは使徒達にとって重要な人であったはずですが死にました。他にも多くの使徒たちが犠牲となって死んだのですが、彼らに死人を蘇らせられる力があれば、それらの死者達皆を生き返らせることもできたでしょう。なぜそうしなかったのでしょうか。これはひとつの重要な疑問です。それは単に神様の意思だということなのかもしれません。しかし、そうでない場合に、この復活に浴するには、どのような基準とか条件が必要だったのでしょうか。

ここで、「復活」に関してまとめてみると、
1.イエスと弟子達の(聖霊の)力で行われた「復活」
2.コリント人への第一の手紙で述べられている神秘としての「復活」
3.イエスが再臨する時の「復活」

1の「復活」は、キリスト教が注目され発展するために必要な出来事であったように考えられます。
2の復活とは、一般に行われている死者の「復活」だと言えるかもしれません。
3の復活に関しては、イエスが再臨する時代に起きる「復活」です。それは下記のように書かれています。

『(23)イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、(24)マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。』(ヨハネによる福音書11章23〜24)
『主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。』(テサロニケの信徒への手紙一4章15〜18)

ここで「終わりの日」が出てきますが、これは最後の千年間を意味しています。それが終わると天地が滅び去るというのです。そして、終わりの日に「復活」するということは、この地上に受肉して(生まれて)くるということではないかと私は想像するのです。そうなると、地上の最後を体験するのかどうかはわかりませんが、彼らが「終わりの日」の千年間に、また地上に人間として肉体を持ち活動する時期があるのではないかと期待するものです。

植木淳一

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