
私は門外漢なので、そうしたことにはあまり興味が無かったのです。つまり誰でも妻帯をして良いと考えていました。だいたいお寺の住職達はお金持ちが多いので、むしろ率先して妻帯をすれば、それだけ幸福な女性(あるいはお金に困らない女性)が増えると思うのです。お坊さんも社会から見ると宗教法人の一角を担う人たちです。だから、宗派内に「戒律」はあるのでしょうけれど、国家や法律の観点から見ると一般人として生きて良いわけです。
しかし、日本でも古代には僧侶は妻帯が禁じられていました。お寺の住職が妻帯をするようになったのは、浄土真宗を開いた親鸞上人からかもしれません。また、修行をする上で若い間はそうしたものに近づかないほうが良いことを経験的に先輩達は知っていたのかもしれません。それで禁欲の戒律ができたのではないかとも考えられます。
また聖書の中に、イエスを試そうとした人たちのことが書かれています。彼らは、イエスに「税金を納めることは良いことか悪いことか」と尋ねます。これは、肯定するとローマの支配を快く思わない群衆を敵に回す可能性があります。また否定すると官憲に彼を捕縛させる口実を作る可能性もあったのです。つまり、どちらの答えもイエスに不利になるのでした。
彼は、税金を納める貨幣を出させて「これは何の像か」と尋ねます。その硬貨に刻まれているのはローマ皇帝であるシーザー(カエサル)の像でした。その答えを聞いて「それでは、シーザーのものはシーザーに、神のものは神へ納めなさい」と彼は答えたのです。
お坊さん達は、イエスのように国家と戒律の板ばさみになってはいないでしょう。しかし社会に生きている以上、様々な局面で現実的な対応が必要とされることは確かです。
昔、断食行の後、菩提樹の下で悟りを開いたとされるお釈迦様は、苦行をしても悟りを得られないことに気づいたと言われます。そして「中道」を説きました。これは快楽主義でもなく禁欲主義でもないその真ん中にある道です。それは普通の人が多く歩んでいる道でもあると思うのです。つまり何でも適度に行ってよいと私は考えました。
先日、上野の美術館で「チベット仏教美術展」が開催されていたので見に行きました。そのなかで目を引いたのが、男女の抱合をしている仏像でした。会場にはそうした仏像がかなり沢山展示されていて、この正確な名前を忘れましたが、それは時輪金剛図のような姿でした。
「理趣経」には、こうした欲望は本来「清らかなもの」であると説いています。しかし、そうしたものから、争いとか犯罪という忌み嫌われるような事柄が出てくるのは、なぜでしょうか。
警察の公表では、世の中の犯罪の90%以上が、お金と異性問題から発生していると言います。だから、この二つを民衆全部に満たせば、世の中の犯罪の大部分が消滅する可能性があります。
ジャイナ教のある寺院には、それを取り巻く壁一面に「春画」が描かれているのだそうです。これは何のためなのか私は直接その寺の住職に聞いたことはありませんが、ある宗教家の言うところでは、それを見て何の欲望も起こさない人が中に入れるのだそうです。一方、欲望を起こす人は、中に入れる資格がないので出直さないといけないというのです。
では、悟りを得た人でないと入れないのかというと、そんなことは無いと思うのです。悟りを得た人は寺院にはいり、わざわざ教えを聞く必要はないでしょう。だとすると、ここに入る方法はただ一つしかありません。
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聖書の創世記には、アダムとイブが楽園に住んでいたときに、神が「園の中央にある善悪を知る木の実をとって食べてはいけない」と言われたことが書かれています。その他の木の実は食べてよかったのです。(命の木もそこにありました)。しかし、蛇がイブをそそのかしてそれを食べさせ、アダムもそれを食べたので、神の怒りをかって二人はエデンの園を追い出されたのです。
この木の実は、りんごの木だとか、セックスの象徴だとか言われていますが、聖書中では、そうではなくて「善悪を知る木の実」だったのです。もしもこれがセックスだとすると、創世記における神の第一の命令である「生めよ増えよ地に満ちよ」という命令と矛盾することになります。
この「善悪を知る」ということですが、世の中はすべて神が創ったもので満ちているわけですが、その現象を「善と悪」とに分類するのは「人間の知性」です。それ以前に、神が創造したものを神が見て、すべて善しとしていました。ところが人間の目から見て「悪」と思われる物や現象も、元は神から出たものなので、それはとりも直さず神を批判していることになります。この意味で、神に対する反骨精神が表れたとも考えられるわけです。結果として、彼ら初期の人間達は「楽園」を追い出されてしまったのです。こうして「死」が人類に入り込んだのです。
しかし神は、その時こう言っています。「見よ、人は我々の一人のように善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からもとって食べ、永久に生きるかもしれない」。
さて、神はエデンの園からアダムとイブを追い出したのですが、命の木はエデンの園の中にありました。アダムとイブが永久に生きるためにはエデンの園に入り、命の木の実を食べなければなりません。そうするとなぜ神は彼らを園から追い出したのでしょうか。これは最大の謎ではないかと思われます。
旧約聖書では「十戒」を守ることが重要でしたが、新約では異なります。新約では、「神を愛すること」「隣人を自分と同じように愛すること」の二つを最大の掟にしています。他の戒律や預言者の言葉はこの二つの掟を実行するための手段として考えられているのです。
人が増えて社会ができると、そこに守らなければならない規則ができて、社会の成員はそれに従って生きることになります。そうでないと、社会に混乱がおきて社会の活動やまとまりがうまくゆかないことが起きそうです。だから、法律があり、それを守らないと刑罰が課される、という論理はある意味で正当でしょう。
しかし、キリスト教の新約の二つの戒めを守れば、法律はいらないのかどうか、考えてみましょう。もしかしたら要らなくなるかもしれませんが、急にはじめようと思っても、無理かもしれません。世の中に良い人間ばかり居るわけではないのですから。試みに、義務教育で、徹底的に上記の二つの戒めを身に付けさせる教育をキリスト教圏で行ってみて欲しいと考えます。それで、どのような社会ができるのか楽しみではあります。でももう手遅れかもしれません。
「法滅尽経」によると、お釈迦様が亡くなられて500年くらいの期間は、教えを忠実に行うことで誰でも「悟り」を得られたといいます(正法の時代と言う)。その後、仏敵が入り込んで教えを歪めたり変容させて、ついには悟りを得難くしてしまうと述べられています(末法の時代)。今は釈迦入滅後二千五百年も経過しているので、末法の時代であり、悟りを得る人は少ないのかもしれません。
あるいは、現代人が、昔の人たちが想像もできないくらい文化的、精神的に進んだ時代に生きているので、すでに古代の人たちの境地を越えて「悟りの境地」に至っていると言う可能性もあります。だから僧侶が妻帯をして、普通人のように生きてもよいのだという弁法が成り立つのかもしれません。なぜなら「中道」を行くのが仏教なのですから・・・
植木淳一
6 件のコメント:
日本では小乗より大乗という流れで
妻帯が広く認められるようになったと聞いた気がします。
キリスト教でもプロテスタントでは聖職者の妻帯が認められるようになりましたが、中世から近代への宗教の変容が日本とヨーロッパで共通する部分があり、共時性があります。
それが明治時代、アジアの中で唯一近代化が急速に成し遂げられた要因の一つだと思います。
Poさん、こんにちは。
過去に「出家」した「僧」は戒律を絶対に守らなければならず、一方「在家」の信徒は妻帯してもよいということだったようです。それが小乗から大乗への変化で、大衆向けの宗教へと変貌したので、さらに自由度が加わったのでしょう。
それは、西欧での変化の、自由、平等、博愛、の精神への流れと似ているように感じます。
また、
○戒律を守る人 ==> 古い考え方に固執する人
○戒律に囚われない人 ==> 新しい考え方のできる人
という図式が近代思想の変遷への解釈にあるようです。
これは、人類の精神的な変化とも言えるものでしょう。
つまりは、過去から続いてきた伝統的な考え方が、人類社会に根ざして一定期間経過した後、ついにそこから脱却する精神が芽生え、そうした変化がおきたとも考えられます。
これは人間の精神構造からも言えることでしょう。人はあるレベルに到達してしばらくすると、またより良いもの、より上のものを求めたがります。
しかし、仏教やキリスト教その他の宗教にもある、人類にとって普遍的な価値を求める人も大勢いるので、それが満たされない限り、宗教は廃れないのかもしれません。
古代の神は、いまや科学技術にとって代わられたような印象があります。
ところが、考え方によっては、現代の科学・技術の発展は、この世を創り、また活動させている「神」を理解し、それに近づこうとする人間の精神が生んだ賜物とも言えるのではないでしょうか。
植木淳一
補足です。
親鸞 1173-1263年
日興 1246-1333年
ルター(1483ー1546年)らによる宗教改革 1517年~
日本では、1872年(明治5年)に太政官布告133号が発布された。僧侶の肉食妻帯が個人の自由であるとするこの布告は、文明開化の一環として一般社会および仏教界によって積極的に受容された。現在では僧侶の妻帯は当然のこととみなされ、住職たる僧侶が実の子息に自らの地位を継がせることを檀家から期待されることも多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E7%8A%AF
最後のご意見に同感です。
自殺者3万人以上の国で、平常心で生きているだけで
すごいことです。
今は新たな悟りを次々に開いていかなければ生き残れない世の中です。
> 今は新たな悟りを次々に開いていかなければ生き残れない世の中です。
もしかしたら、古代も現代も似たような状況があったのかもしれません。
そして釈迦は悩みと迷いの中で出家、その思いを越えようとしたのではないかとも考えられます。
そして、様々な修行や思考の結果として、平常心で世の中に生きられる、悟りの境地に至ったのではないかと考えられます。
彼からでたとされる経典の中には、はるかなる未来には仏教も消滅して消え失せ世界も終焉に至るというような予言がありますが、彼はそうした未来を予測する未来「予知能力」とか、世の中のどこかで起きた出来事でも知ることができる「透視能力」など様々な能力に恵まれていたと想像されます。
そうした能力は古来から様々な修行により獲得することができたようですが、現代ではそのような「超能力」の発現が抑制されているようなので、そうした能力者と出会うことは稀です。
弘法大師「空海」は、遣唐使として入唐するまえに「虚空蔵聞持法」を行い記憶力や頭脳の力を最大にしたり、加持力を増強する修行などを行い、密教徒として一人前の能力を持っていたようです。
そうした力は祈祷により雨を降らせたり、その逆に晴れをもたらしたり、泉を捜し出したりと様々な局面に使われました。
仏教の修行に邁進する人達は、もしかしたらそうした能力が欲しいので、様々な戒律に従い生活をしている人も多いのではないかとも考えられます。
しかし、現代人にとっては、そした能力の獲得も魅力的ですが、如何にして「平常心」を保てる生活をするかが課題だと思います。
植木淳一
昨日、テレビを見ていたら、2009年の日本国内の失踪者が8万4千536人(下位三桁は不正確)居たという話がありました。その半分位が事件に巻き込まれたか自殺した可能性があると推測されているとのこと。結局、それらの人達は表にでないので、行方不明のままなのです。また、残りの約半分の人数は、借金や対人関係などの問題で行方をくらましている可能性があるわけです。でも本当のところはわかりません。・・・それにしても、そうした人達が日本国内にこれだけいるのは不幸なことです。
ところで、先に述べた能力以外に、他人に「あるビジョンを見せる」能力というのがあることを思い出しました。
この話は、お釈迦様の元に集まった人達に対して、お釈迦様が、テレビや映画のように、ある光景(ビジョン)を見せて、物事を解説するくだりがあります。こうしたやりかたは、現代ではテレビや映画によって説明をすることと同じわけで、非常にわかりやすい方法なのです。でも、どのようにしたらそれができるのかという方法に関して私は述べることができません。個人的には自分の思考過程などの「ビジョン」を頭の中で表示・再生することは可能ですが、それを他人の頭の中に起こす方法はわからないのです。しかし、人の思考を伝達することができるので、それと似た方法で可能かもしれないと考えています。また、これに似た話が神道にもあります。
諸派神道の大元教の教師になった出口王仁三郎氏は、若い頃、教祖の出口なお氏の予言によりに見出されました。しかし、その使者が彼のところに出向いて本物かどうか考えていると、王仁三郎氏は、その使者の肩に手を乗せたのです。すると、その使者の眼前に田舎の風景が表れ、そこにある小川のほとりに藁葺屋根の家が見えてきたといいます。そして、王仁三郎氏はその使者に向かって「これが俺の生まれた家だ」と言ったそうです。これはまさに、人に「ビジョン」を見せる能力に他ならないわけです。テレビや映画の無い時代のことですが、今では失われてしまったそうした能力を、古代の偉人たちは駆使していたのかもしれません。
こうした能力や先に述べた能力は、発揮できればすごいと言えますが、しかし、そのような様々な能力を駆使できても、幸福になれるとは限りません。充実した実りある幸福な人生を歩むには、他に必要なものがあるように思われるのです。このあたりが釈迦の達した悟りの端緒になるのではないかと考えます。
植木淳一
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