2010年11月15日月曜日

★今の時代についての幻想

昨日は久しぶりに都内へ出かけました。
特に電車で出かけるのは、ここ一年間で初めてのことです。
実は、二年ほど前に推間版ヘルニアをやってからは、下半身の痺れがあり、やっと車で出かける日々でした。医者によると、レントゲン写真で腰椎の背骨の間が極端に狭まっているところがあり、そこの軟骨が磨り減ったためだと言います。しかし最近では、月日をかけて薬を飲んだり養生をしたためか、少しづつながら足のしびれも治ってきましたし、長時間の歩行も可能になってきました。
今日は昼から午後四時くらいまで歩いてかなり疲れましたが、近くのスーパーで買い物をした後、なんとか家にたどり着きました。昨日は、APECのための警戒が厳重で、都内の駅のあちこちでも、警察官が台の上で道行く人を立ちながら監視していました。誠にご苦労様なことです。

ところで、夜寝ていて、ふと思い出し、起きだして、この記事を書いています。
キリスト教の一派である「エホバの証人」たちは、ある教義をもっていました。それは、イエスキリストが再臨する「時」が迫っているというものです。そして、彼らはその予兆がすでにあったことを説明します。

新約聖書の中でイエスは、約二千年前に磔刑で亡くなる前に、自分が「未来に再びやってくること」を説明しています。そのときは、キリスト教が世界中に宣伝され(マタイ24章14節)、「二度とないような大いなる艱難が起きる」(同21節)ことを述べています。さらにその時、「預言者ダニエル」の述べる予兆があったら「山に逃げる」ように述べています。ところが、キリスト教が世界中に述べ伝えられる時代は、16世紀の「大航海時代」を待たなければならなかったので、これは近代か、現代以降のことだと思われるのです。(かなり空想的ですが)

さて、この問題の謎解きをするには、さらに解明すべきことがあります。
それには「預言者ダニエル」にイエスが言及しているので、ダニエル書に何か鍵があるように考えたのです。
このダニエル書には、紀元前600年前頃に起きた「バビロン捕囚」の時代のことが書かれています。当時、バビロニアは隆盛期で、帝国の拡張を行っていました。そして、攻撃をしてきたエジプト軍を追って、ユダヤの地に来たのです。
ダニエル書の冒頭で、「ユダの王ヨヤキムが即位して三年目のことであった。バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。」と書かれています。当時のユダヤはエジプト軍の配下にあったので、これを攻略する必要があったのでしょう。こうしてユダヤはバビロニアに占領されて、ユダヤの王や家臣たちはバビロニアへ連行され、約70年の間、捕囚となるのです。

このエホヤキム王の第三年は、「エホバの証人」たちによると、紀元前605年で、これはカルケミシの戦いでエジプト軍がバビロニアに負けて敗走した年にあたります。バビロニア軍は、この戦いの後、エジプト軍を追ってユダヤの地まで来たわけです。また、ダニエル書には、バビロニアの王ネブカドネザルの見た夢の中にある「七つの時」という語句がでてきます。この解釈を、360×7=2520(年)であることから、紀元前605年から2520年を経過した年、1914年に設定しています。じつはこの年に第一次世界大戦が起きるのです。こうして、この解釈が真実ではないかということで、キリスト教世界は一時沸き立ちます。しかし、後に第二次世界大戦がはじまるのです。

ここで、ルカによる福音書には「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、その時は、その滅亡が近づいたとさとりなさい。」(ルカ21章20節)とあります。また、「そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられるであろう」(ルカ21章24節)と述べられています。
これと同様と「思われる」ことが、マタイによる福音書にも述べられています。「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ悟れ)、その時ユダヤにいる人々は山に逃げよ(マタイ24章15節)。また、「すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで来ていることを知りなさい。よく聞いておきなさい。これらのことがことごとく起きるまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかし私の言葉は滅びることがない。その日、そのときは誰も知らない。」(マタイ24章33節ー35節)。
よく読んでみると、前者は、西暦66年ー73年に起きた「ユダヤ戦争とユダヤの滅亡」であるのに対して、後者は、それよりずっと後世の「世界の終わりにイエスがやってくる」ことを述べています。

それでは、マタイに述べられている「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者」とは誰のことなのでしょうか。ダニエルの生きていたバビロン捕囚の時代には、それはマナセ王(紀元前687年-642年)でした。

「列王記下」24章1節ー4節には「彼の治世に、バビロンの王ネブカドネツァルが攻め上って来た。ヨヤキムは三年間彼に服従したが、再び反逆した。主は彼に対してカルデア人の部隊、アラム人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊を遣わされた。主はその僕である預言者たちによってお告げになった主の言葉のとおり、ユダを滅ぼすために彼らを差し向けられた。ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。」と書かれています。
また、ダニエル書の最後には、「常供のハン祭が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられる時から、千二百九十日が定められている。待っていて千三百三十五日に至るものは幸いです。」(ダニエル12章11節)とあります。

マナセ王の即位の年、紀元前687年から、1290+1335年を経過させると、1290+1335-(687)+1=1939 より、驚くべきことに第二次世界大戦のはじまりである1939年が算出されます。これはもしかしたら偶然かもしれません。しかし、今の所、第二次世界大戦は人類の歴史上最大の戦乱であることは確かです。これにより、現代がイエスの言葉が成就している可能性があるのです。(+1は起源0年が存在しないので、それを補正するため)
さらに「これらのことがことごとく起きるまでは、この時代は滅びることがない。」(マタイ24章34節)とあります。この「時代」、あるいは「世代」が何年であるのかが、次に問題となるわけです。しかし、それに関してはここでは述べないことにします。

★人類の未来を考察する

ところで、人はもともと地上の生物達のトップに立つように作られたことがわかる。言うなれば、人類は地上の生物達のトップであるので、会社で言えば社長であり、国で言えば総理大臣とか大統領である。そうなると支配者というだけでなく、皆の面倒を見ながら、地上全体をうまく導き、管理しなければならないだろう。聖書の創世記にもそれが書かれている。

「創世記」1章27ー28節『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」』。

ところで、過去に人類は開発という名目で地上を荒らしてきたので、地球温暖化などもあり、現在は絶滅し始めている生物達を保護するように動き始めている。先日、名古屋で開催された「COP10」もその一環である。これは地上の管理者としての当然の行動だろう。

さて、現在は前出のように「世の終わり」である「終わりの日」(千年間?)だとすると、人類に残された選択肢は二つあると思う。一つは、念仏を唱えながら、世界の終焉を待つことであり、もう一つは「天と地が消え去る」(マタイ24章34-35節、マルコ13章30-31節、ペトロの手紙二3章7節)事が、この太陽系が崩壊することくらいに考え、他の世界へと探検に出ることである。そして、新たな居住に適した惑星をみつけてそこに移住することでしょう。それには、現在のロケット推進システムではなく、もっと経済的で再利用可能な、例えば電磁気力などで推進できる進んだ乗り物が必要とされると考えられます。

宇宙は広く限りないので、宇宙旅行や輸送産業がいくらでも発展できる素地があります。このように、宇宙産業の発展を進めてゆく方策はどうでしょうか。きっと、人類の恒常的な発展が約束される可能性があると思うのです。

ヨハネによる福音書14章2-3節には「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」とあります。

これが霊的なものなのか、あるいは、惑星の上に存在する物質的な世界なのか、多少の疑問は残りますが、私は「父の家」が全「宇宙」を意味すると思うので、こうした未来社会を思い描くわけです。また、以前に記述した「生まれ変わり」の問題もあります。こうした複合的な出来事により、未来は形成されてゆくのだと思うのです。

とにかく、あまりにも幻想的で空想的すぎますが、イエスの述べた事柄が起きても不思議でない時代へと、現代は入っていることが想像できるのです。それにしても、この問題を頭のなかで夢想していると、色々なアイデアがわいてくるのです。(しかし、白昼夢にならないように気をつけています。)皆様はどう思われますでしょうか。

植木淳一

2 件のコメント:

Po さんのコメント...

お体が良くなって来てよかったですね。

いつでも世の終わりという選択肢が人生にあるタイプの人が居ます。
そういう人はそれを回避する新しい知恵の創出を期待されているのです。

Unknown さんのコメント...

ご心配をいただきまして、ありがとう!

ついでながら、私の生きている間に「世の終わり」は起きそうにないので、あまり気にしていません。後世の人達の直面するであろう問題ですね。
今のうちに何か出来ることがあればと考えてはいます。
それより、個人的な「死」に関して気にする方が賢明だと考えています。これはいつの世でも普遍的に各人に存在する問題だからです。
どちらも、個人の力では、どうにもならないような事ではありますが・・・
植木淳一