2011年9月16日金曜日

■■■永遠の存在!??

最近は良いお天気が続きます。

青く澄んだ空には、白い雲がぽっかり浮かんでいることがあり、しばらくその動きを眺めていると、なんとも言えない晴れ晴れとした気分になります。

そして懐かしいような愛らしいような、一種独特の印象が伝わってくるのです・・・。それは、高校生時代に、学校の野球場の土手の草むらで、友人と共に寝転んで眺めていた「空や雲」と同じようなものだからかもしれません。そのときは、草の香りと、大地の冷ややかさ、頬をなでるそよ風のやさしさ、日の光の暖かさ、リラックスした体の爽快感、などを感じたのでした。

しかし、日常の雑念を忘れて、その「青い空」や「雲」の動きを眺めているうちに、不思議と素晴らしい「印象」がやってきて、恍惚となるのです。そして、ある確固とした存在が分ってくるようにも感じられたのです。

青い空に浮かんでいる雲は、自由無碍で、ゆっくりとなんら制約も受けず変化し続けています。・・・それを眺めているうちに、なぜか日常の意識とは別の意識がよみがえり、・・・「永遠」・・・とか、・・・「過去生」・・・という言葉などが、なぜか自然に、しかもリアルに感じられてくるのは不思議です。

キリスト教の聖書によると、自然界の全ての物は唯一の神から作られた被造物なのです。そして、こうした「雲」や「青空」も同様に神の被造物です。だから、それらの一つ一つや「その様態」を親しく観察し、慈しむことは、創造主に対する礼儀とか敬意でもありましょう。むしろ、文面による教義を離れると、そうしたことでしか私達は創造主を愛することはできないわけです。

古代人はそのような自然界から、ある永遠の存在を知覚して、宗教をはじめました。神道では、そうした被造物の一つ一つに神性が宿っていることになり、仏教では仏性がある、ことになります。

例えば、私達の乗っている「地球」は、大きすぎて人間の力ではとても動かすことはできません。しかし、ある一定の自然の法則にしたがって回転していて、それよりもはるかに巨大な「太陽」の周りを、緻密な計算による予測と同じ軌道上を、何十億年もの間動き続けています。いっぽう、一般人は、一秒先や明日の事も知ることはできないのです。

そうした事を、何の苦もなくやり遂げている、ある「法則」とか「知性」の存在を認めるかどうかは、各自の自由でしょう。

古代から様々な宗教では、そのような”人間の知性を超えた存在”に対する敬意と、人間一人一人に対する愛情や尊重感は、必修の教えとなっていました。しかし、現代では科学が発達したために、人間は多少尊大となり、創造主を軽視しているようにも思われます。

でも、世界を作り上げて、それを活動させている創造主の存在を知覚する、という思考。それと人類は皆、愛すべき兄弟姉妹なのだという思考方法は、現代でも、人間がこの世に生きてゆく上だけでなく、天国のような世界を地上に作り出す上で大切なことだと思います。(教えでは必修だという)。もともと「人間」の存在自体が、それを造り上げた”ある存在”の偉大さを物語っているからです。

様々な宗教では、その”無限なる存在”の分身が各自の内部にも宿っていて、時折様々な印象(インスピレーション)などで、その個人を助けてくれることもあると説かれています。

ある書籍によると、そうした各人の内部に宿る「偉大な存在(の分身)」からくるインスピレーションに気づき、それに従った行動をとれるようになると、他の進んだ惑星社会へと(生まれ変わりにより)「転生」ができると言われます。(つまり地球レベルを卒業できるわけです)

そうでないと、転生はできても、やはり現在の地球上と似た環境に生まれ変わるでしょう。もう一度やり直しなのです。ある新道系の言葉では「出直し」です。・・・どこから出てくるのかは明確ではありませんが・・・。

しかし、そうした様々な思考は忘れて、この青空の美しい季節に、ぜひ一度、空を行く雲の動きを眺めてみましょう。貴方にも、そうした永遠からのメッセージとかインスピレーションがやってくるかもしれませんよ。

植木淳一

P.S.関連事項に関して「復活」を参照ください。

3 件のコメント:

Wood さんのコメント...

★自分のもつ想念に注意を払うこと

人が何により動き、また動かされているのかを考えると、興味深い部分があります。

●一般人のケース(1)
サラリーマンは朝、定刻までに会社へ出かけようと、起き上がってからその準備に忙しいのです。トイレに行き、顔を洗ったり食事をしたり、歯を磨いて髪をとかして外出着に着替え始めます。もしも、朝、起き上がるのが遅かったりすると、朝ごはんを抜きにして出かけたりします。このときは、ほとんど思考している余地はなく、時間との勝負です。
通常これは自動的に、また習慣的に行われます。しかし、土日等のお休みの日には、何もしないでゆっくりと寝ていたりできるのです。このときの、思考と体の行動との関係を調べてみると、やはり、ある印象が人の顕在意識にやってきて、それから体が自動的にそれに反応しているように思えます。

●一般人のケース(2)
人と話をする時には、相手の話を聞いているうちに、ある事柄を話したくなり、相手が話し終えるとそれを話し出したりします。また、親しい友人を町角で見かけたりすると、急に親しみの感情が沸き起こってきて、声をかけたりします。その逆に、日頃から色々と面倒を起こしている相手と出会うと、急に不機嫌になったり怒りを感じて、それを言葉に出したり、行動に移したりするのです。
しかし、宗教団体に所属している人達の中には、怒りをそのまま行動に移してはならないと突然思い直して、相手に怒りでなく、普通に、優しさを装って接したりする場合もあるのです。

●発明家のケース
エジソンは、様々な発明をしましたが、最初から成功するかどうかわかりませんでした。白熱電球を考案したときには、光を出す「フィラメント」を作るのに、何千もの様々な物質を試しています。その中には、日本の孟宗竹を取り寄せて炭化させ、細い線状にしたものに電流を流して白熱化させ、発光させたこともあったようです。こうして現代では金属タングステンを細い線にして真空のガラス球の中に閉じ込めた電球が実用化されています。彼の行った行動は、それまで地上にないものを作り出したわけですが、そのアイデアを現実のものとして生み出す努力を続けさせたのは、彼の「盲目的な信念」にほかなりませんでした。
一方、同時代の天才的発明家、ニコラ・テスラは、それまで直流発電機ばかりが作られていた時代に、交流発電機を発明したことで有名です。電気は、直流より交流のほうが変圧器により電圧も変えられるし、電線を使用して遠方まで送るのに適していたのです。現代では、送電される電気の全てが交流になっています。彼の発明は、様々なアイデアが、完成された形で頭の中にひらめいてくる、という驚くべきものだったようです。

こうした、行動に移すべき事柄とか、口に出したくなる「思考」とか「アイディア」「話」はどこから来るのでしょうか。通常は、人の心とか頭脳からというのが答えでしょう。とにかく、一般人の場合には、何らかの必要性から、それがおきてくるのは確かなことでしょう。

イエスは『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイによる福音書4ー4)と述べましたが、人の行動や話す言葉は、現代では心や頭脳から出てくるものと考えられていますが、そうした源泉を彼は「神」と表現したのではないかと思われます。創世記には、神は「人を神に象ってつくった」とあります。だから、「人」は神の似姿だと考えることも可能でしょう。
しかし、この言葉を考えると、人間に内在する「神」の分霊を意味していると言うべきでしょう。

現代には、過去になかったような素晴らしい物品が沢山あります。こうした発明品を沢山生み出しているのは人間なのです。たとえば、高さ三百メートルを超える巨大な建造物とか、長さ四百メートルを超える巨大な船、小型のタバコケースより小さな携帯電話機など、数え上げるとキリがありません。しかし、一方で人間は、他の動物達と同様に自然界から取れた食物を食しているし、呼吸をしていて、そうした観点から見て、やはり動物の一種と言えるのです。

仏典の「理趣経」には、こうした人の行動の源泉となる欲望とか動因は、全てが本来清らかなものであり、人間に備わった機能であると説いています。しかし一般人には、トイレに行きたくなったり、食事をしたくなったり、セックスをしたくなるなどは、綺麗な欲求とは言えないのですが、綺麗とか汚いというのは人間の感情が造り上げた「価値基準」や「概念」でしかなく、全ての動物や微生物が本来行っている生命の活動のひとつなのです。聖書的に言えば、神がそのように体の機能を創ったのだから、そうした欲求や行動が起きてくるのは当然なわけです。

しかし、人間が社会的に生きてゆく上では、そうした欲求の全てを自分勝手に行えるわけではなく、あるルールに則った形で行わなければならないので、普通の人間は注意しながら行っているのが実情です。ここに、本人の理性が介入してくるのです。それによって人は、神や天使のようにも振舞えるし、動物的な生き方もできるのです。

そう考えてみると、日頃、人のもつ理想や思考、想念に常に注意を払いつづけ、自分の理想とする生き方かどうか問う事が大切であると思われるのです。

植木淳一

Po さんのコメント...

雲は大人になるとあまりにも
当たり前すぎて
感動しなくなりがちです。
雲も生き物と考えると
おもしろくなります。

Wood さんのコメント...

青空とそこに浮かぶ雲に関して、私にとってはつまらないものではないのです。それは過去に、何か特別な良い思い出があるせいかもしれません。だから、そこから受ける印象はたぶん個人的なものでしょう。

とくに、澄んだ青空が背景にある光景では、なにか遠い過去にあった記憶が蘇るような、懐かしい印象を受けるのです。しかし、大抵それが何であるのかははっきりとはしないのです。また、そこに白い雲の一切れがあり、次第に変化し続けるような場合には、「生き生きとした印象」とか「何かの発展性」といったものを感じたりするのです。
もちろん空に黒雲が垂れ込めたりしている時には違う暗い印象がきます。
しかし、晴れた日の青空を見ると、何か若いときの希望とか、憧れのようなものが沢山詰まったもの、という印象が感じられて、それを見つめているとなぜか心が晴れ晴れとしてくるのです。

昨日は、東京上野に「空海 真言密教美術展」を見に行きました。真言宗の開祖である比類なき高僧の名に「空」と「海」があります。どちらも雄大な大きさをもち、それぞれ天と地上の要素をもっています。大空は無限の広がりをもつ宇宙に繋がり、海は古代からその中に無数の生命を育んできました。「空海」はそうした自然界の雄大さや力強さ、包容力等に憧れ、それと自身を一体化しようとしたのかもしれないのです。

植木淳一