2011年10月19日水曜日

●再び「復活」についての疑問と仮説

●ある疑問と仮説

 以下の疑問は以前から持っていたのですが、未だに結論が出ないまま、中途で放ったままになっています。

 その疑問というのは「終わりの日」の様態と「復活」または転生に関する論理、そしてイエスの使徒達の運命です。

★復活の神秘

 まず最初に考えなければならないことは、コリント信徒への第一の手紙(第15章51節)から、「復活」に関する「神秘」または「秘儀」が書かれています。
 この記述を要約すると、私達は「死」後、眠り続けるのではなく、別の肉体をすぐに(またたく間に、一瞬にして)持ち、よみがえらされる、というのです。そして「死」に対して勝利する、というのです。この「別の(新しい)肉体」とは、おそらく胎児であり、出生によってこの変化が成し遂げられると解釈するのです。こうして古い肉体は朽ち果て、無に帰するが、私達の「霊体」は新たな肉体(新生児)に宿りその中で成長し本人は復活する、というわけです。
http://spacepeople-ga.blogspot.com/2008/12/bc-2627282930.html(内の記述をご参照ください)

 この考え方は一見、陳腐ではありますが、現代人からみると、墓場から骸骨しか残っていない本人が蘇って出てくる事よりも、よはどまともに思えます。また、死後に霊体が生きている成人に乗り移るのも変な問題を生じます。結局、同書が述べるように、本人の霊体が「常に肉体を持つ(一緒にある)」ためには、宿る対象として出生してくる「胎児」や「出生児」以外には無いと単純に考えた方がよさそうです。
 しかし、パリサイ派の教師であったニコデモのように「人は年を取ってからどうして母の胎内へ入れましょう」という疑問をイエスに対して呈する人が、当時は大勢居たに違いありません。教師の疑問は生徒達にも伝染します。しかし、これはむしろ自尊心からでた疑問であったかもしれません。いずれにしても、聖なる事を司る教師が、このような話をすると満場爆笑の渦に巻き込まれるので、そうした下世話な話をするわけに行かなかったのかもしれません。

★終わりの日に復活すること

 さて、「終わりの日」に関してですが、ヨハネによる福音書(六章38節ー40節)には、次のイエスの語る文章があります。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 つまり、イエスを信じて付き従った者達が皆、永遠の命を得て、終わりの日に復活させる、というのです。

 さらに、ヨハネによる福音書第11章23節から25節に、次のような言葉があります。
 『イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」』

 つまり、マルタは「終わりの日」に彼女が「復活」することを信じていたのです。
 また、「私を信じるものは、死んでも生きる」という言葉があります。これは言葉の上からは矛盾ですが、つぎの「決して死ぬことはない」と同様に、前記の「復活」のことを意味していて、本人の肉体は死ぬけれども、本人の霊体は新たな肉体を得て生き続ける、という意味と解釈をすると、理解できるように思われます。つまり、永遠の命とは、このような「復活」の繰り返しにより、肉体を次々と変えながら、本人の霊体は生き続けるという意味に解釈すると、理解できるように思われるのです。

 このように、永遠の命と「復活」の間の関係を理解しておくことが、以下の話を理解する上で必要となってきます。

★終わりの日とは

 終わりの日というのは、上記のように、やはりマクロな世界的(地上全て)な出来事のように思われます。

 マタイによる福音書(第13章37節ー42節)には、
 『(37)イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、(38)畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。(39)毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。(40)だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。(41)人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、(42)燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。』と書かれています。

 ここには「世の終わり」と書かれています。
 この意味は、ある者の「支配の終焉」という意味と「世界の終焉」という二つが考えられます。最初の意味では、サタンの支配の終焉という意味でしょうし、後者では、地上が崩壊して無くなるほどの意味を持っています。前者は確実ですが、後者の意味に関しては今のところはっきりしません。

 マタイによる福音書(第24章3節)には、
 『イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」』と弟子達が聞いたことが書かれています。

 この答えとして、戦争とか世の中の兆候など様々な出来事が書かれていますが、同書第24章14節には「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」と述べられています。
 
 キリスト教が世界中に宣教されるには、16世紀に入って世界各地へと海を渡り冒険をした、大航海時代を待たなければなりませんでした。この時代に、南米へはスペイン人が到達し、北米大陸にはイギリス人たちやフランス人たちが渡って、アメリカ合衆国が建国されるまで、キリスト教は知られていませんでした。

 ですから、言葉通りに解釈をすると、イエスの再臨と「世の終わり(終わりの日)」に関して、16世紀以前にはありえないことになります。

 また、「終わりの日」の長さに関しては次の文章が役立つように思われます。
 『しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。』ペテロの第二の手紙(第3章7節ー9節) 

 ここには「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」と書かれています。つまり、「終わりの日」も千年間の期間があるのかもしれないというわけです。

★イエスの再臨のときに何が起きるのか  

 前記のように、「イエスの再臨」のときに「終わりの日」も来るわけですが、その期間は千数百年もあり、到底、一個人として生き残ることはできません。そのような事実を踏まえると、次の文章の意味を再考せざるを得ないように思うのです。

(テサロニケ信徒への第一の手紙の第四章13節から18節:日本聖書協会、新共同訳)
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。」

(Thessalonians 1: 4-13~18: Holly Bible new Reviced Standard version: Oxford University Press)
But we do not want you to be uninformed, brothers and sisters, about those who have died, so that you may not grieve as others do who have no hope. For since we believe that Jesus died and rose again, even so, thorough Jesus, God will bring with him those who have died.
For this we declare to you by the word of Lord, that we who are alive, who are left until the coming of the Lord, will by no means precede those who have died.
For the Lord himself, with a cry of command, with the archangel's call and with the sound of God's trumpet, will descend from heaven, and the dead in Christ will rise first. Then we who are alive, who are left, will be caught up in the clouds together with them to meet the Lord in the air, and so we will be with the Lord forever. Therefore encourage one another with these words.

 ここで、「キリストに結ばれて死んだ人達が、まず最初に復活し、それからわたしたち生き残っているものが、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」という文章が問題となります。

 前にも述べたように、イエスの再臨は「終わりの日」の千年間であるので、このときまでに肉体を持ったまま生き延びている人は居ないということです。だから、この部分の訳は「キリストに結ばれて死んだ人達が、まず最初に復活し、それから(今)わたしたち生き残っているものが(死後に復活する、そして)空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」というように解釈する必要があると思うのです。
 そうでないと、「最初にキリストに結ばれて死んだ人達が復活する」に対応する文章がなくなってしまうように考えられるのです。つまり、「次に、今生き残っている私達が(死後に)復活する」と、手紙の中の著者が述べているわけです。当然のことながら、この著者も手紙を受け取った人達も既に死んでいて、現在は生き残っているわけが無いのです。

 この代表例が、十二使徒の一人であった「ペテロ」です。彼はローマで刑死した後、お墓に葬られましたが、その上に有名な「サンピエトロ大寺院」が建設され、ローマ法王が代々そこに居住するようになりました。これは、イエスの言葉「お前の上に教会を建てよう」が実現したことになるのです。
 しかし、今のところペトロが復活して蘇ったという話はないので、イエスの再臨はまだないという理屈になります。(これは冗談です)

 ところで、「復活」が胎児からの出生を意味する場合に、生まれ変わった人は元の人と同じかどうか、どのようにしたらわかるのかという疑問がわきます。これに関しては、何もいえないのです。というのは、もしも白人だった人が黒人に生まれ出たとすると、元の人と全く同じ外見とは言えなくなってしまうからです。もちろん、出生が黄色人種の場合もあり、またエスキモーであったり、アフリカやアラブの住民であったりする場合もあるでしょう。だから、本人を確認するには詳細な記憶などから割り出してゆく他は無いと思われます。

 この解釈だと、前記の文章にも矛盾することなく全てを説明できるように思われるのです。もちろん他の解釈が成り立つ可能性もあるのですが・・・この「仮説」が成り立つのかどうか。また、このように解釈してよいものかどうか、未だに解決がついてはいないのです。

植木淳一

1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

●上記のリンクに関して、下記に要点を抜き出しておきました。

「キリスト教の述べる、私たちの【復活】に関する要点」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★「私はあなたがたに神秘を告げます。私たちは皆、眠りにつくわけではありません。私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、私たちは変えられます。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が成就するのです。『死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか。』」
(新約聖書:コリント信徒への手紙:15章51節〜55節)

「最後のラッパが鳴るとき」というのは「死」の瞬間でしょう。というのは「私たちは皆、眠りにつくわけではありません」と書かれているからです。つまり、人は死して後、眠りに付かないで、一瞬のうちに変えられるのです。

「ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ」るのです。つまりは死ぬと「霊」としての存在となるのです。ところが、その次があります。

「この朽ちるものが朽ちないものを着」と書かれているのは、「肉体(朽ちるもの)が霊体(朽ちないもの)を着る」というのです。次も同じ事が書いてあります。「この死ぬべきものが死なないものを着るとき」というのは、「肉体(死ぬべきもの)が霊体(死なないもの)を着るとき」と言い直せます。

人間はなぜ母の胎から生まれてくるのでしょうか。それは、肉体が必要だからで、その時に新たな肉体は、霊体を着て、胎内から出てくるのではないでしょうか。これが「神秘」の意味ではないかと思うのです。

(エドガー・ケイシー氏などは、転生に関して、多くのリーディングを残しています。)

★「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいることを知らないのですか。」(新約聖書:コリント信徒への手紙:第三章16節)

その霊は神の霊なのですから、信徒たちの中には神が住んでいることになります。また、もしかしたら人間全員に神が住んでいるのかもしれません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下は、別の記事中にある「復活」(=転生)に関する記事です。

●キリスト教の述べる死と生まれ変わり  から。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「コリント人への第一の手紙」(6章、13章、14章)には、「神秘」として、このことが書かれているように思われます。

それは、いずれ死を迎える「肉体」と永遠に生きる「霊体」に関した事柄です。「永遠を生きる人間」はこの両者の結合したものであり、死がそれを分離させるが、瞬時に「霊体」はまた、新たな肉体を得ることが「死者の復活」として述べられているように思われます。

「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。」(コリント第一6章14)「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。」(コリント第一6章17)

上記の記述から、この復活には「主」なる存在と「一体」となる必要が理解できます。

さらには、
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(コリント第一6章19―20)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

★それでは、主なる存在との一体化とは何をしたら良いのでしょうか。

ルカによる福音書十章二七節には新約独特の次の聖句があります。
『彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」』

このように、自分の内に存在する「主」に対して、愛し続けることが述べられています。これこそが、その骨子と考えられるものです。
たとえば、夫婦が愛情をもち結ばれた末に、長い間一緒にいると、似た者になっていることに気が付きます。また、精神的にツーカーとなったり、同じことを考えていることなども多くなるようです。これなどは(精神的な部分で)夫婦が一体化している証拠でしょう。これと同じように、人間は長く思い続けたり愛情を注ぎ続ける対象と、精神的に一体化できるのです。これは、その人の愛情の度合いと愛し方により多少の差異は起きると考えられますが・・・

これは、キリスト教の述べる「主なる存在」との一体化法であると考えられます。

以上、ご参照のために記述しました。

植木淳一