2011年10月21日金曜日

またまた「生まれ変わり」への補足です。

 浅学ですが、また仏教と生まれ変わりに関した事柄(仮説)を一つ書かせていただきます。

 原始仏教を研究された水野弘元博士によると、お釈迦様が教え始めた時には、三論と四諦を説法したとあります。
 三論というのは、施論(貧しい人や出家者に施しを行う)、戒論(殺さず、盗まず、嘘を言わず、不倫をなさず、という戒律を守る)、生天論(施論や戒論に述べられたような正しい生活を続けてゆくと、来世には必ず天国に生まれて、幸福な生活を過ごすことができる)という三つの教えです。四締とは、苦集滅道のことで、現在の苦境を解決し正しい道(八正道)を実践し続ける教えです。当時は、これだけで悟りを得られた人達が続出したと言うのです。

 また、日本の中世では「浄土宗」や「浄土真宗」が栄え、阿弥陀仏にすがることで、西方浄土(理想の天国のような世界)へ生まれ変わることができる、という教えが広まりました。こちらは、日頃から「南無阿弥陀仏:なむあみだぶつ」を唱え続ける事で、極楽(西方浄土)へ往生できる(天国へ生まれ変われる)という単純な教えです。

 さて、キリスト教ではどうかというと、次のような記述があります。
 『イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」』(マルコによる福音書十章十七‐二三。同様の事がマタイ十九章十六‐二三節、ルカ十八章十八‐二四にも書かれている)

 ここには、永遠の命(天国へ入る)を得る方法が明確に述べられています。つまり、戒律を守ることと、貧しい人達への施しです。また、その根底にはキリストを信じる心が必須となるわけです。これに関しては仏教も同じでしょう。これはおそらく、個人のもつ「カルマ」の解消を目的としていると思います。

 このように、三論に述べられた教えと、キリスト教聖書による教えとを比較すると非常に似通っていることに気がつきます。

 そうした教団の背景には、仏教では「出家」という極端な生活様式があります。つまり、釈迦に従った者達は出家者で、衣類は一つで托鉢(食事を恵んでもらう)のための入れ物一つを持ち、修道生活を送るという生活です。また、キリスト教もイエスに付き従ったのはエッセネ派であったといわれています。こちらも、修道生活を送る一派で、集団で食事をし、財産を持ち寄って人里離れた場所で共同生活をしていました。

 さらに、ルカによる福音書十章二七節には新約独特の次の聖句があります。
『彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」』
ここでは、守るべき戒律も二つに集約されています。
 一方、仏教では万物に存在する仏性を追及しそれとの一体化を図り「仏=如来」(覚者)となる事が目的とされます。
 ア氏の述べることでは、自分の内部の「宇宙の意識」(=潜在意識=神=主=仏性)と一体化することで、それが達成できると述べています。

 仏教は、仏説法滅侭経によれば末法の世に滅び去り消えてしまうとのこと。釈迦のご活動から500年間の正しい教えが流布される正法の時代から、像法の時代(500年?)を経て、ほとんど悟りの得られない末法の時代へと、時代は移り変わってゆくと述べられています。それはやはり、三論や四諦に述べられているような教えを、世の人達が信じなくなったためではないでしょうか。

 さて、ア氏はその著書で、このような話を聞いたといいます。
 『地球人は”生まれ変わり”という言葉を誤った意味で用いています。その本当の意味は、地球の各人が同胞の無知から脱却してより高次な生命の理解に達したとき、別な惑星での生まれ変わりが許されることなのです。すると本人は地球上の体験の生き生きとした記憶をもって生まれ変わります。あらゆる生命を支配する基本的法則に関する本人の概念は卓越したものとなるでしょう。本人の日常の習慣、家族や仲間との関係などの記憶はなおも鮮明に残りますが、それは二次的なものになるでしょう。二つの生涯のあいだに断層はなく、地球での本人を混乱させた雑多な名称や区別にわずらわされぬ進化の継続があることを悟るでしょう。』新ア全集第一巻第11章より

 おそらく、キリスト教聖書や三論、四諦に述べられた教えを実践することが、同胞の無知から脱却する方法であり、高次の生命の理解に達する道なのでしょう。(もちろん密教でもそうした道が述べられているものと考えますが。)

 しかし、仏教の説く道は「中道」であり、エピキュロス派とストイック派の中間点を行くもののようです。つまり、悟りを得た「如来:にょらい」の一つ手前の「菩薩:ぼさつ」は行者と凡人との中間に例えられています。こうした部分は一般人としては少し気が休まる部分があります。また、中道に関してア氏も勧めていて「我々は皆、生活を楽しんでよいのです」と述べています。

 上記に述べられた事柄は、なにげなく思われる方法ではありますが、そうした地道な方法をとって行くことが一般人の可能な道筋だと考えるわけです。

 上記の仮説がどこまで通用するものなのか、また真実性があるのか、自分で実践して確かめてみる以外はないと思っています。

 植木淳一

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