2011年10月27日木曜日

●NHKのドラマ「坂の上の雲」の感想

★NHKスペシャル・ドラマ「坂の上の雲」をやっていますね。

このドラマは、現地ロケと3年の歳月をかけて放送しているもので、NHKならではの出演者の多彩な顔ぶれも見物ですが、ロシアの豪華な宮殿とか様々な名所で、現地ロケにより撮影が行われ、貴重な映像が沢山でてくるので、それも楽しみでした。今年も年末(12月より)に放映されますが、最後の「第三部」となりました。(放送時間などは下記のリンク先をご参照ください)

また、このドラマは司馬遼太郎氏の同名の歴史小説を映画化したものです。

●時代背景

この時代は、日本が幕末の改革から明治政府が誕生し、日本が西欧化に邁進して行く途上の大発展期にあります。
また、明治初期の青年たちが、どのような事を考え、何を目標にして生きて行ったかが、三人の有名人を元に描かれているようでした。私は同小説を読んだことが無いのですが、秋山真之氏に関しては何冊かの本により知っていました。

私は戦争は嫌いなので、これまで書きませんでした。とくに今回はそのもっとも戦闘場面の多い部分です。
日清戦争、日露戦争と、困難な戦争に勝利した日本は、次第に国際社会においても力をつけてゆきましたが、この小説はその上り坂にある、若き明治政府の活動の時期でもあります。

米国のペリー提督が1853年に日本の浦賀にやってきて開国を強要し、ついには通商条約を締結するにいたります。しかし、それまでの日本は鎖国政策を採っていたので、外国との交流は原則として禁じられていました。
この開国のために起きた日本国内の混乱と内戦は、ついに270年間続いた江戸幕府を倒して、明治政府を作り上げる原動力となります。

●秋山真之氏との出会い

私が、秋山真之氏を知ったのは、彼が日本の連合艦隊の作戦参謀であって、日本の艦隊の勢力を上回る勢力をもつ、当時は世界最強であったロシアのバルチック艦隊とどのように戦ったのか、という話を聞いてからでした。
また、その話の最初に、バルチック艦隊がどの経路を通ってくるのかに関して、彼や連合艦隊の司令官たちが悩んでいた数日があったのです。

このとき、ロ艦隊は韓国と九州の間の「対馬海峡」を通過する、というのが大勢の人達の意見でしたが、太平洋沿岸を北上して「津軽海峡」を抜ける可能性もあったのです。また、濃霧だと幅が200km近くある対馬海峡でも見失う危険もありました。ここで、ロ艦隊を通してウラジオストック港へ入港させてしまうと、戦争は長期化するだけでなく、ついには日本の全艦隊や大陸にいる陸軍部隊も危なくなります。

しかし、ロ艦隊は、航路から予想される日に、対馬海峡を通過しなかったのです。あるいは見失ってしまったのかもしれない。時間は容赦なく過ぎて何日か経過し、ついには艦長達が集まって、連合艦隊は「津軽海峡」へ向かうべきではないかと相談をし始めるのです。

このときの決断が、勝敗を分けたのです。
『ロシアのバルチック艦隊が東に進んでいる間、自分は毎日ただ静座して沈思黙考につとめた。するとある種の心霊作用があって、バルチック艦隊の動きが手にとるようにわかった。誰もがバルチック艦隊の威力におそれをなし、ことに民間では、恐怖が極度に高まっていた。しかし自分には、バルチック艦隊を撃滅しうるという確乎とした信念があった。その後の作戦は、すべてこの固い信念の力によったもので、科学的方法によったのではない。科学的方法にたよったのでは、日本艦隊はバルチック艦隊の敵ではなかった。』と秋山真人は「日本論」の作者である載氏に話したという。(「日本論」より)

結局、日本艦隊はロ艦隊が対馬を通過することに掛けた。連合艦隊司令長官であった東郷平八郎は、5月18日を過ぎてから、日に日に痩せていったという。(「秋山真之のすべて」より)この日本海軍司令部の混乱と苦痛は5月27日にロ艦隊を対馬海峡付近で発見するまで続いたのです。

このように、その結果はどのようになろうとも、ある作戦からその結果が出るまでの司令部の人間のもつ直感と苦悩のほどが、私のような素人にも十分想像できたのです。
こうしたことは、企業で責任のある立場の人達が、多かれ少なかれ日常的に体験することでもあるのでしょう。

付け加えると、日本海海戦での決断を下す上での背景には、秋山氏が信奉していた大本教の予言があったかもしれないと、個人的には考えています。大本教の「出口なお」氏は予言が的中するので有名でしたが、日露戦争に日本が勝つと予言し、当時、対馬海峡の小島に少数のお供を連れてわたり、そこで戦勝祈願をし続けていたそうです。また、秋山真之氏は大本教で鎮魂帰神法を習っていたと書かれている書物もありました。

とはいえ、日本の連合艦隊の何千人もの人の命を預かる司令部の人間が、予言をする婆さんの話を信じて行動していた、では話になりません。
実際には、日本の海軍は大勢のスパイをロシアから日本への海路上の港に配置して情報を収集していましたし、対馬海峡付近には、無線機を積み込ませた沢山の漁船や監視船を、網の目のように配置して、発見したら通報させる情報網をつくっていました。

ロシア艦隊が予定より遅くなったのには理由がありました。それは、速度の速い艦と遅い艦艇の混成艦隊であるだけでなく、長期航海のために艦艇に故障が相次いだことです。その艦艇の故障を修理している間、他の艦艇全部が停止して待っていたのです。
ロシア艦隊のロジェストベンスキー提督の功績として、五十隻近くの艦隊を率いて、はるばる地球の裏側からの長距離を航海したことが挙げられます。これは途中で岸壁に接岸して石炭を補給することなしに行われました。つまり、途中に親ロシア側の港がほとんどなかったためでもあります。世界初の偉業だそうです。

また、ロシア側も二隻の駆逐艦を日本の太平洋側に航海させる陽動作戦を取りました。日本側がそれを発見したら、太平洋側をロシア艦隊が通過すると思い込ませる作戦でした。(事実、発見されていた)
しかし、もう少しで対馬海峡を通り抜ける日の未明に、ロシア艦隊の末尾に居た病院船の灯火が燈っていたために、日本の監視船に発見されてしまいます。(他の艦艇は灯火管制に従って明りをつけないで航行していたのです)。そして、この日の昼から有名な日本艦隊との海戦となりました。(日本海海戦または対馬海戦)

歴史に”イフ(もしも**)”はないと言いますが、もしこのロシアの病院船が灯火を消していて、対馬海峡を日本艦隊が気づかない間に抜けていたら、かなりの艦艇がウラジオストックに行けたかもしれません。大事の前の小事と言いますが、提督に逆らって夜間の点灯航海という国際法を守り抜いた病院船の船長は、結果としてロシア艦隊を滅亡させる引き金を引いてしまったのでした。

●日露戦争の功罪

戦争はしない方が良いに決まっています。この戦争を通じて多くの人命と多額の兵器や資産が失われました。そして負傷者たちの傷は一生癒えないものだったかもしれません。

しかし、当時の日本人には人間的な慈悲真や規律が徹底していたらしく、そこから国際間の融和と親善が芽生えたのです。たとえば日本の軍人達や民間人達は、捕虜に関して国際法を守り、沈没した艦船から海に投げ出されたロシア将兵達に対して、近くにいた日本艦隊は戦闘を中止して救助しました。また、ロシアの虜囚達の負傷者には治療を施し、食料を与えてちゃんとした宿舎に泊まらせました。ロジェストベンスキー提督の看護に献身した看護婦四人は後にロシアから勲章を贈られています。こうしてロシア艦隊五千九百十七人を含む虜囚達に親切にしてあげたため、以後の日露間の国際親善に役立ったことが挙げられます。特に松山には日本最大のロシア人捕虜収容所がありました。

こうした日露関係の改善例としては、1914年1月にロシア海軍は、沈没したロシアの戦艦「ぺトロパブロフスク」の引き上げ作業と、同艦に同乗していたマカロフ提督の遺骨埋葬に協力した、日本海軍の坂本海軍中将と平岡海軍大佐に聖アンナ一等勲章などを授与したことが挙げられます。

また、1915年は欧州での戦争に巻き込まれたロシアにとって苦しい年であった。そのために、ロシアからの要請にこたえて、日本は小銃33万5千丁、銃弾8750万包、大砲531門、砲弾7万発を売り渡し、ロシア政府は3800万円を支払ったという。また、民間人もロシア大使館にロシアの義勇兵として志願申請する者がいたというのです。世の中、変われば変わるものです。

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歴史的な決断を行った人達の背景には、このような様々な要因があり、その影響が重なって結果が出ていたのだということを知ったのです。しかし、最終的な判断を行う上で、やはり意思決定者の感と判断能力が必要だということは事実だと考えます。

植木淳一

■NHKスペシャル・ドラマ「坂の上の雲」■公式サイト
http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/

■「坂の上の雲ミュージアム」■
http://www.sakanouenokumomuseum.jp/

●活動方針(同ホームページより)
平成19年4月28日、坂の上の雲ミュージアムは、松山のまち全体を屋根のない博物館とする『坂の上の雲』フィールドミュージアム構想の中核施設として開館しました。小説『坂の上の雲』は、松山出身の秋山好古、真之兄弟と正岡子規の3人の生涯を通して、近代国家として成長していく明治日本のすがたを描いています。本ミュージアムでは、小説に描かれた主人公3人の足跡や明治という時代に関する展示に加え、まちづくりに関するさまざまな活動を行い、訪れた人々が時の流れについて感じ、考える場を提供していきたいと考えています。

4 件のコメント:

Wood さんのコメント...

●過去の教訓から・・・

それにしても、そうした透視能力とか予知能力があれば、今後は戦争に進む前に、何とか和解の道を探して、共存の方策を実行してほしいですね。

戦争を行うと必ず多くの死傷者と国民の資産が失われます。そして今の兵器は過去のものより数段破壊力や性能が向上しています。

現在は、過去にはなかった民主主義の政治が、互いの国でできるのですから、きっと国際紛争の良き解決手段が見つかると思うのです。

植木

Wood さんのコメント...

★NHKでは「坂の上の雲」の再放送を予定してます。詳しくは同ホームページをご覧ください。

●最放送予定

http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/time/#timeEntry02

また、12月からは、最後の第三部が放映されます。

植木淳一

Wood さんのコメント...

この戦争映画を見ると(いつの時代でもそうだろうが)兵士達を将棋の駒くらいにしか考えていないという印象が深いです。
「旅順要塞」包囲線では日本軍は13万人の兵力を投入し6万名あまりもの死傷者をだしたという。そのなかでも激戦だった「203高地」攻防戦では、日本軍は6万4千人の兵力を投入し、5052名の戦死者と1884名の負傷者を出したが、ロシア側もこれに匹敵する死傷者をだしたそうです。
たかだか標高203mの丘陵に、日露双方が3万4千人もの死傷者をだしたというのは、恐ろしいことです。当時のこの山は死体や血で満ち溢れたことでしょう。当時の戦記物を読むとその凄まじさが伝わってくるようです。
太平洋戦争(第二次世界大戦)時代も同様で、紙一枚(召集令状)で戦地へ出かけさせられて、こうした大量殺戮の場所で亡くなった人達が多いのです。戦争はいやですね。

植木淳一

Wood さんのコメント...

一方、死んでいった兵士達とは対照的に、日本の司令官は、勝利の時に漢詩文などを書き残しています。

爾靈山嶮豈難攀
男子功名期克艱
鐵血覆山山形改
萬人齊仰爾靈山

{読み下し文}
爾霊山(にれいさん)は嶮(けん)なれども、豈(あ)に攀(よ)ぢ難(がた)からんや
男子の功名、艱(かん)に 克(か)つを期す
鉄血山を覆いて、山形改まる
万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山

{現代訳}
爾靈山は険しいが、どうしてよじ登れないことがあろうか
男子の功名は困難に打ち勝つところにある
(砲弾の)鉄や血が山を覆い山の形が変形した
全ての人がみな仰ぎ見る爾靈山

203を(2:に、0:れい、3:さん)と日本語読みした所と、息子たち二人を戦死で失ったことから「爾靈」(2人の霊)と歌ったのか、爾靈山は意味が深い名前のつけかたです。

植木

P.S.

こうしたことに興味を引かれたのは、最近、「ゼルダの伝説」のゲームをやっていたために、闘争本能を刺激されたせいかもしれません。気をつけなければ・・・