2012年10月26日金曜日

●ふたたび「生まれ変わり」とは何かを考える

今年のノーベル化学賞は、京都大学の中川教授に与えられました。
彼が研究して作成したiPS細胞は医学分野で役に立ち、人の生命を救ったり寿命を延ばすことに役立つと認められたからです。
このiPS細胞を使用すると、人の内臓や皮膚、骨まで再生できると考えられています。
これに対してクローン技術があります。
クローンは親の細胞の核から遺伝子を取り出し、それを他の個体(同じ生物)の卵子に移植して、親と同じ個体を作り出す技術です。こちらは牛などの動物に対して行われ、親の動物とそっくり似た動物ができる実績があります。(実際には、胎児を育てる母親が異なると少し違いがあると考えられる)

さて、これが人間にも応用できるだろうという考えがあります。しかし、こうして作られたクローン人間は親と同じかというと、そうではないようです。もしも親が生きている間に、親の細胞からクローン人間がつくられ育ったとします。そうすると、このクローン人間が親を見て自分だと思い感じるでしょうか。また、親もそのクローン人間を見て、おれだと思うでしょうか。
さらに、たとえば十人のクローン人間を作った場合、その一人一人が、他のクローン人間を見てみな自分だと思うでしょうか。そうは思わないと思います。それは一人一人がそれぞれの感性を持っていて、自分という意識は別個にあるからです。

ここで、何度も似たことを書くな、というお叱りを受けるかもしれませんが、まだ、本当に説明が尽くされていないようにも思えるので、また「転生」に関して書いてみることにしました。

A氏の主張では、人は死ぬ時、最後の息を吐く間に他の肉体に転生するという。つまり転生は、ほんの一瞬の出来事であるわけです。そして、その転生先は、どこかのご婦人のお腹にいる胎児である、となります。そして月満ちて、そこの世界の一員として生まれ出るわけで、このように、人の生命は連続しているというのです。

この場合、死んだ人の肉体は朽ち果てて無くなります。そうなると、本人だと識別できるものは、体験などの「記憶」しかないということになります。そして、白人から黒人に生まれ変わったり、黄色人種に生まれ変わった場合には、背の高さや容貌が生まれ変わる前と同じということは考えられないのです。性別が転換した場合でも同様でしょう。
そこまで考えると、ユダヤのサカイ派のように「死んだら何もなくなる」という考え方も一理あるわけです。生前は太って大柄で、立派な髭を生やした威厳のある老人が、生まれ変わったら、かわいい小柄の女の子になった、ということもありえるのです。

しかし、まさに死の直前では、死に行く肉体と、生まれ変わりを受け入れる肉体(胎児)が同時に存在しています。そのために、本人の記憶や情報の流れを授受する何らかの手段があればよいわけです。
卑近な例ですが、インターネットに例えれば、ソフトやデータを送信するパソコンと、それを受信するパソコンがあればよいわけです。この場合、ソフトやデータが本人となるわけです。しかし、これはあくまでも例えであり、実際にどのようなものかわかりません。もしかしたら想像を絶するものかもしれません。
これに関する例えとして、生命界はたった一つの受精卵細胞から、複雑な人体を想像する力と叡智を持っています。そこにはどのような驚異的な仕組みが働いているのかは分からないのです。さらに、昔から言われている、テレパシーとか遠隔透視などの能力が作用する仕組みが自然界に存在する場合には、転生においても、そうした遠隔地への何らかの情報伝達の可能性はあると思うのです。

こうした転生が、何度でも繰り返されれば、その人は永遠に生き続けられるわけです。この論理が、人の「永遠性」とか「不朽性」を意味すると考えられなくもないのです。

この観点から聖書を読んでみると、

『(13)食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。(14)神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。』(コリント第一、第六章13-14)

の中に出てくる「復活」は、まさに「転生」を意味するのではないかと思わせる印象があります。しかしこの考え方は、今の教会の一般的な解釈と違う場合がある、かもしれないです。また、この文章から考えられる「主」なる存在は、体内に宿る何者かを指しているように思えます。

また、『(19)知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(20)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。』(コリント第一、第六章19)

の部分は「主」なる存在に関して、さらにひとつの重要な示唆を与えているように考えられます。
イエスがユダヤ人の中で教えているときに、神を冒涜しているとして石で撃ち殺されそうになった時がありました。

『(33)ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」(34)そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に「わたしは言う。あなたたちは神々である」と書いてあるではないか。(35)神の言葉を受けた人たちが「神々」と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。(36)それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、「わたしは神の子である」と言ったからとて、どうして「神を冒涜している」と言うのか。』(ヨハネによる福音書第十章33-36)

この中にでてくる律法(旧約聖書の部分)は、

『わたしは言う、あなたがたは神々だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。しかし、あなた方は人のように死に、もろもろの君の一人のように倒れるであろう。
I say,"You are gods, children of the Most High, all of you; nevertheless, you shall die like mortals, and fall like prince."』(詩篇82編6ー7)

を指しています。

そうすると、「主」なる存在も、体に宿る「神からいただいた聖霊」のことになるのです。

★復活のしかた

『(35)しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。』(コリント第一、第十五章35)

『(42)死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、(43)蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(44)つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(45)「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。(46)最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。(47)最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。(48)土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。(49)わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。』(コリント第一、第十五章42-49)

この部分で何度も現れる対比は、

●朽ちるものー> 肉の体=自然の命の体=最初のアダム=地に属する者
●朽ちないものー> 霊の体=最後のアダム=天に属する者

という図式があります。

また、ここには、当初、肉の体に付随する者でも、次第に霊的に成長して強く輝かしい者になってゆく様が書かれているように感じられます。(42-44)

そして、この復活は一瞬にして行われるというのです。

『(51)わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。(52)最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(53)この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。(54)この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。(55)死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」』(コリント第一、第十五章51-55)

この部分は別の解釈が可能です。しかし、

1.人は必ず死ぬということ(過去からの既成事実)
2.人の死後に起きることに関して書かれている
3.人は「死後眠りにつくわけではない」と書かれている
4.すると「最後のラッパ」が黙示録に書かれている事とは考えられない
5.だとすると、死後、一瞬にしておきる変化が書かれている

という観点から見ると、この不死性に関して象徴的に述べられていると考えることができます。

以上で、A氏の言葉と聖書との関連から、検証らしきものを少し行いました。

私達は、まだこの分野に関しては未開拓だと考えられるので、今後のさらなる研究が必要なように思われます。

植木淳一

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